味あわせる、味「わ」わせる
味わってたべましょう。
素晴らしい味わいでした。
その喜びを味わうことなくすごしてきた。
こういう表現をみると、あじわう。という言葉があるのがわかる。
味わい、となると名詞として扱われるようになるのも大体わかる。それがこっちになると、表記ゆれが出る。
「お子さんに達成感を味あわせてあげたいと思いませんか」
これはいろいろなところで書かれているのを見かける。口にしてみるとそれほど違和感がないような気がするが、表記としては目が引っかかる感じがするので、気になっていた。
息子が「…の味がする」という話をするときに「…が味わえる」と表現したので、「それちょっと使い方が違う」と指摘して、そのあと、いろいろと話をしたら、夫はそれほど違和感を感じていないことがわかった。
しょうがない…これは調べるしかない。
調べてみたら、形、つまり文法的には、味わうの活用は「わ」のところでするということがわかった。
「お子さんに達成感を味わわせることが出来れば、素晴らしいと思いませんか」
…とまあ、こうなるわけだ。
ただ、発音するときに「わ」が2つ連続するのが嫌がられて音便的に引きずられて、「味あう」になってしまうらしい。
「それを味わわずにはいられなかった」と書いたとき確かに使い慣れなくてもたもたする感じが私もする。
変換するときも「味合わせる」としか変換しなかったが、「味わわせる」の時はすんなり変換したし、正規表現としては「味わわせる」なんだろうな。
これはあれだ、「ティーバック」(下着ではなくて、お茶をいれるほうの)とか、「ベット」(賭けるのではなくて、寝るときに使う家具)とかの音が発音しやすいほうへ引きずられるようなのと同じタイプのことだという理解でよさそう。
ふと、高校生の時の国語の先生の声で「おいおい、味を「合わせて」どうすンだ」と突っ込む声が聞こえた。
あー、確かにそういわれそうな感じがする。
自分がどういう風にその言葉を初見にしたか、発音してきたか、書いてきたかでどれが「正しく思える」かというのは変わってきてしまう。誰だって間違っているとわかっていて、そうするわけではないからだ。
昔はこれが正しかったとか、最近の習慣ではそうなっているから、とか割と表記ゆれもあるらしいのだけれど、とりあえず「味わわせる」のほうを採用しておこう。
素晴らしい味わいでした。
その喜びを味わうことなくすごしてきた。
こういう表現をみると、あじわう。という言葉があるのがわかる。
味わい、となると名詞として扱われるようになるのも大体わかる。それがこっちになると、表記ゆれが出る。
「お子さんに達成感を味あわせてあげたいと思いませんか」
これはいろいろなところで書かれているのを見かける。口にしてみるとそれほど違和感がないような気がするが、表記としては目が引っかかる感じがするので、気になっていた。
息子が「…の味がする」という話をするときに「…が味わえる」と表現したので、「それちょっと使い方が違う」と指摘して、そのあと、いろいろと話をしたら、夫はそれほど違和感を感じていないことがわかった。
しょうがない…これは調べるしかない。
調べてみたら、形、つまり文法的には、味わうの活用は「わ」のところでするということがわかった。
「お子さんに達成感を味わわせることが出来れば、素晴らしいと思いませんか」
…とまあ、こうなるわけだ。
ただ、発音するときに「わ」が2つ連続するのが嫌がられて音便的に引きずられて、「味あう」になってしまうらしい。
「それを味わわずにはいられなかった」と書いたとき確かに使い慣れなくてもたもたする感じが私もする。
変換するときも「味合わせる」としか変換しなかったが、「味わわせる」の時はすんなり変換したし、正規表現としては「味わわせる」なんだろうな。
これはあれだ、「ティーバック」(下着ではなくて、お茶をいれるほうの)とか、「ベット」(賭けるのではなくて、寝るときに使う家具)とかの音が発音しやすいほうへ引きずられるようなのと同じタイプのことだという理解でよさそう。
ふと、高校生の時の国語の先生の声で「おいおい、味を「合わせて」どうすンだ」と突っ込む声が聞こえた。
あー、確かにそういわれそうな感じがする。
自分がどういう風にその言葉を初見にしたか、発音してきたか、書いてきたかでどれが「正しく思える」かというのは変わってきてしまう。誰だって間違っているとわかっていて、そうするわけではないからだ。
昔はこれが正しかったとか、最近の習慣ではそうなっているから、とか割と表記ゆれもあるらしいのだけれど、とりあえず「味わわせる」のほうを採用しておこう。