自分だけの居場所
子どもの頃、部屋には鍵がなかった。部屋の戸はあけっぱなしにするものであって、鍵なんかかけたら何をするかわからないというようなことを母は考えていた節があって、なおかつ母と折り合いが悪かったものだから、あんまり家は居心地がよくなかった。
ただ、当時でも子どもが本を読んでいても注意されない場所というのはあちこちにあった。子どもが大声を出したり、ドタバタ遊んではいけない場所はたくさんあったが、大体公民館とか児童館とか公園とか図書館というのは子供がひとりで静かに本を読んでいればそっとしておいてくれた。公民館の使われていない談話室や、囲碁室で図書館の本をさんざん読んだものだ。
ベランダの横の屋根だとか、二段ベッドの下段だとか、家にも人目につきづらい場所があったが、本を読むのは基本的に目が悪くなるから、と止めたいぐらいの勢いだったので自分の家で本を読むのは突然邪魔される可能性が高かった。本を読まない子どものお母さんたちには私が本を読むのがうらやましがられて、割と褒められたものだが、外で元気に遊ぶのが子どもらしいと思っていた母にとってはどうして外にでて遊ばないのだろう…ぐらいのことだったのだろう。
邪魔されない場所で、一人になりたい。自分の居場所が欲しいな…。姉と二人部屋だった私はずっとそう思って大きくなった。
一人暮らしをした時には、静かな、誰も入ってこない場所というのがどんなにうれしかったことか。
今は、自分の部屋もあるし、息子と夫が出かけてしまうとゆっくり出来るので、もうそういう問題はないはずなのだけれど、なんだか落ち着いたゆったりした感じがしないのは、やっぱり次々と家事をやっているからだろうか。小さくてもいい、逆に狭いぐらいのほうがいいぐらいの、あの隠れ家でゆっくりくつろぐような気分にならないのは、なぜなんだろう。ふとそう思ったのが、コロナの自粛が終わったぐらいの時。
今日、ふと本を読み終えたときにその感じがするのに気が付いた。
本は、これ。岩波少年文庫の「小公女」。
この物語はもう一体何度読んだか…というぐらい読んだ。多分小中学生の頃に持っていたのは、角川文庫の(はず)で、川端康成さん訳だが、今は絶版で手に入れづらいので、手に入りやすそうなのを選んで読んだ。
小さいころから長い間、知っている物語というのは、自分の居場所のようなものかもしれない。
だとしたら、私はずっと小さいころから、自分だけの居場所を持っていたということになる。
心安らぐ、小さな丸い世界。いつだって入っていけて、誰に邪魔されることなく幸せなひとときが過ごせる、そんな小さな部屋。
今頃気づくなんてね…という感じだけど、自分の居場所が、本の中にあるというのは、なかなかいいのではないだろうか。
周りに何が起きていても、本の表紙のドアを開けて入れば、もうそこは自分だけの世界。
物理的に場所が…というのではないところが、ちょっと不思議な感じがするけれど意識していなかっただけで案外利用してきたよねえ…。
「それは魔法が本当になった日のことなんです」
自分の一生で多分絶対口に出来ないセリフなんだけれど、大好きだ。いろいろな訳を読み比べている最中なのだけれど、自分的にベスト訳は、どれになるか、まだ決まっていない。