ブログを何のために書くか。
私が普段読みに行っているブログ、【Waraund.50 ふうこ♪のある時ない時+闘魂ブログ】で、7月20日に書かれていた記事「長年ブログを続けている人はもうやめようと思ったことはないのか」を読んで考えたこと。
時々ブログをやめようかな、と思うときがあるという話で、誰のために書いているんだろうとか、自己満足にすぎないのではないか、とか悩んでいる話が書いてあった。
私も、改めてそう突きつけられると、答えにくいな、と思う。
7月の途中から、いつもなら大体2週間は先に貯めておくブログの記事のストックが切れて、2日分ぐらいしかなくなったことがあった。何を書こうか、明日はもう書くことがなくなるんじゃないか、とか思うとちょっと気が気ではなかった(また2週間ぐらいのストックに今は戻っている)。
でもせっかく「毎日更新」とか題名に入れているブログではあるし、毎日更新しないと絶対更新できなくなると思うので、毎日書きたい。
書いて何になるのか?と言われると別になんにも、と言うしかない。株式情報とか、投資のコツとか、お得な情報とかがあるわけではないし、読んでためになるようなことが書いてあるわけじゃないからね。
でも、書くのが楽しいか、と言われると答えはYESだ。大体あんまり頭を使わない生活をしているので、こういう文章を書くのは多分、脳トレになっている気もするし、知り合いがただでさえ少ないので、ブログを読みに来てくれる人と、薄くてもつながりを持てることは、私の気持ちの助けになっていると思う。
こんな「ブログ」なんていうものがない時にも、私は日記をつけていたことがある。後から読み返すと自分でもすっかり忘れているようなことが書いてあって面白いし、大体日本文学には「日記文学」とか言われる分野もあるぐらいだ。自分の覚書として書いた日記が、その人の死後読まれるようになったなんていう話があることを考えると、やっぱり「他人の日記」というのは読んだら面白いということではないだろうか。
他の人の心が、垣間見えるような日記を読むことは、読まれる本人には恥ずかしいこともあるだろうが、たとえば鍵付きの日記帳があったり、「隠してあった日記を読まれる」というような話は聞いたことがあるから、やっぱり「どんなことを書いているのだろう」と覗き見るような興味深いものだということは、ネットがないころからのお約束なのだろう。
私が思っていることを文章にして、もやもやしていることを書いたり、落ち込んだ時にはブログをはけ口にしたりするのは、つまりは紙の日記帳に文章を書いていたころと変わっていない。楽しかった体験や思い出を取っておくために書く。
つらいことがあったときにも、書く。体験はどれでも、その瞬間が一番新鮮で鮮烈であり、時が経ったらぼやけて、薄れて、忘れ去られていくそういうものだからこそ、文章に書いて残しておくのがいいと思っている。
読みに来てくれる人も少ないけれども、でもいいの。紙の日記帳と違って、他の人が手に取って読んでくれる、ネットの日記帳は、コメントをもらったり、「私も同じこと考えてる」とか感想を持ってくれる人がいるのがうれしい。
自己満足でいいんだと思う。世の中の趣味なんてね、ほとんどが自己満足なんだから。世のため、人のためになる人なんて一握りだと思う。
私はそういう人にはなれなかった。でもきっと、私みたいな人がほかにもたくさんいる、そう思う。
「おまえだけじゃない、みんなもつらいのだから、大丈夫」そう言われて、なんとなく納得した気がしてくるけど、自分だけじゃないからと言って、何が大丈夫なの?というのを読んだことがある。確かに、他の人も同じような体験をしているからといって、今経験しているつらいことがなくなるわけではない。ないけど……
でも、私だけじゃないと思うと、なんとなくほっとする。そういう効果が多分、ブログにはあるのだと思う。
時々ブログをやめようかな、と思うときがあるという話で、誰のために書いているんだろうとか、自己満足にすぎないのではないか、とか悩んでいる話が書いてあった。
私も、改めてそう突きつけられると、答えにくいな、と思う。
7月の途中から、いつもなら大体2週間は先に貯めておくブログの記事のストックが切れて、2日分ぐらいしかなくなったことがあった。何を書こうか、明日はもう書くことがなくなるんじゃないか、とか思うとちょっと気が気ではなかった(また2週間ぐらいのストックに今は戻っている)。
でもせっかく「毎日更新」とか題名に入れているブログではあるし、毎日更新しないと絶対更新できなくなると思うので、毎日書きたい。
書いて何になるのか?と言われると別になんにも、と言うしかない。株式情報とか、投資のコツとか、お得な情報とかがあるわけではないし、読んでためになるようなことが書いてあるわけじゃないからね。
でも、書くのが楽しいか、と言われると答えはYESだ。大体あんまり頭を使わない生活をしているので、こういう文章を書くのは多分、脳トレになっている気もするし、知り合いがただでさえ少ないので、ブログを読みに来てくれる人と、薄くてもつながりを持てることは、私の気持ちの助けになっていると思う。
こんな「ブログ」なんていうものがない時にも、私は日記をつけていたことがある。後から読み返すと自分でもすっかり忘れているようなことが書いてあって面白いし、大体日本文学には「日記文学」とか言われる分野もあるぐらいだ。自分の覚書として書いた日記が、その人の死後読まれるようになったなんていう話があることを考えると、やっぱり「他人の日記」というのは読んだら面白いということではないだろうか。
他の人の心が、垣間見えるような日記を読むことは、読まれる本人には恥ずかしいこともあるだろうが、たとえば鍵付きの日記帳があったり、「隠してあった日記を読まれる」というような話は聞いたことがあるから、やっぱり「どんなことを書いているのだろう」と覗き見るような興味深いものだということは、ネットがないころからのお約束なのだろう。
私が思っていることを文章にして、もやもやしていることを書いたり、落ち込んだ時にはブログをはけ口にしたりするのは、つまりは紙の日記帳に文章を書いていたころと変わっていない。楽しかった体験や思い出を取っておくために書く。
つらいことがあったときにも、書く。体験はどれでも、その瞬間が一番新鮮で鮮烈であり、時が経ったらぼやけて、薄れて、忘れ去られていくそういうものだからこそ、文章に書いて残しておくのがいいと思っている。
読みに来てくれる人も少ないけれども、でもいいの。紙の日記帳と違って、他の人が手に取って読んでくれる、ネットの日記帳は、コメントをもらったり、「私も同じこと考えてる」とか感想を持ってくれる人がいるのがうれしい。
自己満足でいいんだと思う。世の中の趣味なんてね、ほとんどが自己満足なんだから。世のため、人のためになる人なんて一握りだと思う。
私はそういう人にはなれなかった。でもきっと、私みたいな人がほかにもたくさんいる、そう思う。
「おまえだけじゃない、みんなもつらいのだから、大丈夫」そう言われて、なんとなく納得した気がしてくるけど、自分だけじゃないからと言って、何が大丈夫なの?というのを読んだことがある。確かに、他の人も同じような体験をしているからといって、今経験しているつらいことがなくなるわけではない。ないけど……
でも、私だけじゃないと思うと、なんとなくほっとする。そういう効果が多分、ブログにはあるのだと思う。