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毎日更新!LuckyDuckyDiary

いらっしゃいませ。毎朝6時には更新します。さっくり読んでいってください。コメントくださった方はリンクさせてください、相互リンク歓迎、リンクがダメな方は連絡お願いします。

男女平等の時代

中学生か、高校生ぐらいの時、自転車に二人乗りして帰ったことがある。
大丈夫、走るから。そういう私にぶっきらぼうに「こっちのほうが早いから」と。

意識しすぎだったかもしれないが、なんとなくちょっとうれしかったのも確かだった。
 今考えるとすごく青春ぽいし、ちょっと映画の一コマにこんなのがありそうだと思う。

 自転車に二人乗りをすると、絶対顔は合わせないことになる。
 男子は前を向いて運転して、女子は後ろで横を向いて座る(この場合、前をむいてまたがるという選択肢はないとされていた)から、まったく向いている方向は別で、だからちょっと照れずにしゃべれる…というような効果もあった気がする。

 今日こんなことを書こうと思ったのは、町で今日、二人乗りする男女を見たから。
 今はもうたぶん二人乗りというのは違法だし、おまわりさんには絶対止められるけれど、でも時々は今でも見る。

 そして、高校生だろうな、という恰好だったのだけれど、なんと、女子が前!男子が後ろに乗っていた。
 おおおおおー。と思った。これは2、30年前にはなかったことではないだろうか。
 多分「自転車の持ち主が運転する」ということになっているのだと思うけれど、その場合でも私が高校生の頃は男子が「自転車を借りて前に、女子が自分の自転車だけど後ろに」乗ることになっていたと思うから、これはやっぱり時代の流れだと思う。

 なるほどねえ…。意識が変わっていくということをすごくはっきりと目にした感じがする。 
 いいよ、すごくいい。
 中高生の時から、こういうのが当たり前になっている子たちが就職したり、家庭を持ったりする時代になったら、違いが出てくるだろうと思う。本人たちはそれほど意識していなくても。
 就職差別や、給料の格差が減っていく時代がちゃんと来るのだ…という気がした。

 今から20年たてば「えーー?そんな格差なんてあったんだ?大変だったんだねえ」という感想が聞ける日が来そうだ。
 

第2波、くるのかなあ。

コロナの緊急事態宣言が解除になるらしい。買い物に行ったら人がどっさりで、確かにみんなちょっと浮かれている感じ。
 いいことだと思う。

 家に帰って手洗いをして、シャワーを結局浴びちゃったし、布かばんを持って行って全部洗濯機に突っ込んでいるのも、財布がジップロックなのもそのままにしている私も、買い物が2日に1度で頻度が上がって、ちょっとご飯を作るのが楽になった気がする。

 アメリカでは8万人がコロナで亡くなったそうだ。
 アメリカの人口は日本の大体倍、2億5000万人ぐらい。単純に計算すると日本の人口だと4万人なくなったぐらいの計算になる。
 今調べてみると日本での死者は851人。

 まあ、関連した症状で亡くなった人がいるとして、倍の人数なくなったとしても2000人以下。
 少ない…よね?
 
 なくなる人はたいてい重症化して、病院に入るのが当然という症状になるみたいだから、そうそう何倍もの人がコロナで亡くなったけれど数に入っていない…というのは考えづらい。

 8万人が多すぎるという線で考えるとしても、100倍近くいく、というのもそこまでアメリカ人と日本人に差があるとも思えないし、アメリカではやったウィルスが日本ではやったのとちょっと違う変異をしていたにしても、そこまでちがうものなの?という疑問がわいてくる。

 医療崩壊で呼吸するのを助ける機械を年齢が上の人から外して、若い人に…というような悲劇が起こった話とかも聞かないから、単に一度にかかる人が少なかっただけ…なのか。

 それとも大体が花粉症の時期だったため、最初から3、4割の人はマスクをかけていたからだったり?でもたかがそれだけでそんなに差が出るの?
 
 まあ、日本は「マスクをするのが当然」になるのは早かったと思うし、どんなマスクにしろかけている人は多かった。
 アメリカに滞在したときにわかったけど、アメリカ人はマスクをしない。風邪をひいていて咳が出ていてもしない。これは日傘と同じようなもので、日本ではかなりの女性がさしている日傘も、アメリカでさしているひとがいたらそれは日本人、というぐらい見ないから、単に習慣の問題なんだろうけど。

 でも「たかがマスク、それも布のだとか、安い1枚10円以下の不織布のマスク」だったよね?少なくともうちにあるのはそういうのだった。花粉症で家に備蓄してあったのはつまり50枚398円クラスという人がほとんどだったはず。5枚358円なんてお大尽なマスク、正直買ったことなんかなかった。

 それでこんなに効果が出るのなら、それはすばらしいことではあるけど…。
なんだかあり得ない気がする。

 フランスに住んでいる友達や、カナダに住んでいる友達の話を聞くと外出禁止はもっともっと厳しかったというし、店に入場制限ももっとあったらしい。それでも死者数、罹患者数ともにかなり高い。

 スーパーに毎日行っている人だって結構いるし、仕事にだって通っている人も結構いたはずの日本でこう、第一波がここまで軽く終わった原因は何なんだろう、そのあたり、あんまり確定情報って出回っていないよね?

 誰かが研究してくれるといいな、と思う。
 そしてほかの国でももっと軽く済むように…これから夏が来て、呼吸器系の病気が全般的に減る。
 喘息も冬のほうが多いと思うし、大体風邪にしろ、インフルエンザにしろ気温34度の時にかかったという話はそんなに聞かないから、コロナも多分減るんじゃないかなあ。

 夏の間に準備して、また秋ぐらいからくるだろう第2波に備えようと思う。
 ウィルスの専門家の人たちはワクチン開発と、治療薬の発見に全力を尽くしているんだろうし、今回が軽く終わったから、これはつまり「避難訓練」みたいなものだと思って、次回に備えるのが市民に求められる…ということで。

 今年の冬に備えて、マスクを縫うかな!
 部屋を掃除して、居心地よくして冬に備えよう。
 
 家に備蓄してあったマスク、家に備蓄してあった無水アルコールもちゃんと今回役に立った(ちょっと足りなかったけど)。
 夏の間にまたちょっとずつ買って貯めて、秋になってまた非常事態宣言…ってなったときにあわてないようにしないとね。

 ちなみにアベノマスクはまだ届かない。別に要らないけど!
 手持ちの布はもう、全部マスクにしてしまおうかな!
 プリーツ布マスク、欲しい人いますか。ほしい人はご一報ください。

 
 

中学生時代の疑問解消

 私は、ずっと…子供のころから「まじめだ」といわれてきた。
 正直それがうれしかったか、といわれると全然。まじめというのは日本社会ではいいこと、ということになってはいるが、なんとなく「まじめ」というのは揶揄されている感じだし、幅の利かないことではあった。

 つまり「まじめ」じゃなくなれないところが問題というか。

 普通にしているだけなのに、まじめといわれてもな…。と、ちょっと今の息子ぐらいの年齢だったころは悩んだりしたものだ。
 
 宿題はそれほど真面目にやったか、といわれるとやっていないものもあったが、勉強は割とできた。歴史マンガだの、秘密シリーズ(科学もの)だの、本は大好きだったから、その知識だけでも案外中学生なら理科だの社会だのは乗り切れたという事情もあって、暗記するものは特に得意だった。

 大人になってからは本人まじめなつもりじゃなくても、「本当にまじめだねえ」としみじみ言われて「ああー。なんかやらかしたっぽい」となったことも何度かある。でもこういうのって、なかなか何がダメだったのかわかりづらいからね…。
 まあ、それでちょっと気まずいぐらいのことはあっても、大問題に発展したことはないので、そのままにしてきた。

 ちょっと最近、なるほど、比較によっては、「まじめ」なのか…。と思うことがあったので書く。

 息子。中学生で登校はたったの1日。そこで宿題と教科書を配られ、5月の10日前後からオンライン授業もあるそうだが、この日記を書いている時点ではまだ、宿題が出されているだけ。

 これがね…。宿題をやらないんだな。しぶしぶやっても字が汚いし、テキトウに問題を読んでいるのだろう、正答率低し。
 そして、「そんなの別にやらなくても、こんなのぜんぶわかってるし」ぐらいのノリ。まあね、数学得意だものね。夫と家で勉強している教材はかなり先取りだし。
 でも国語とか、理科はさ!ねえ、それと社会ね!

 一応ね?それなりに教育してきたつもりなわけよ、特に放任でもないし、かといってそんなに締め付けてきたつもりもない。標準的に宿題はそんなに好きではなくても、カリキュラムに入っていることもあるのだから、やりましょう、自分のためになるのだし、復習は大事ですよ、とか、レポートの調べ学習は、これからの人生に調べ物をする機会はたくさんあるのだから練習しましょう、とかね?おすすめしてきたわけよ。

 でも、この時点で「宿題なんてさー。やらなくていいんじゃないのー?」と。
 
息子の学校は夏休みは私立らしく長めなので、全部夏休みをつぶせばカリキュラムがこなせそうではあるから、あんまり今の時点では心配していないけれど、なるほどねえ、まじめじゃない、というのはこういう感じなのかあ、と眺めた。

 美術や音楽にまで宿題が出ているのだけれど、「あとで」の連続で、そのあとはいつなんだろう、結局できなくてそのまま登校になるんじゃないか…と思う。
 
 学校が休みになって(というかはじまってもいない?)、しばらくたつけれども、それを心配もしていないし、自宅学習もさせてはいるものの、結構ちゃらんぽらん。
 オンライン授業が始まる、という話については「オンラインだったら、授業まともに聞いてなくても、わかんないよねー。らくちーん」って…。

 なるほどねえ…。いくら中学生のころだったといっても、あんまり私には出てこない発想だ。
 男女差なのか、個人差なのかというと、これはたぶん個人差?
 
息子のその反応を叱ったものか、そしてもし叱ったとして直るものかというと直るとは思えないしなあ。
 一応両親そろって苦言を呈しておいたが、まじめじゃない子の反応というのを目の当たりにしてちょっと驚きが。当時私には、クラスメイト(のまじめじゃない子たち)が家で何をしているのかはほとんどわからなかった。

 なぜテストの成績が20点とか30点とかになるのかも理解できなかった。授業に出ていたらそんなもの、取れようがないだろうと思っていた。でもこれはたぶん、基礎知識が全体的に欠けていて、授業中に魂が遠くに飛び去っていたら考え付く範囲で書いたらそういう点数になっちゃうのだな…。
 自分の息子があんまりまじめではないというのもちょっと驚きだけど(遺伝とか、ないのかなあ)。

 中学校の時の私はつまり、けっこうがんばってたってことだねえ。親は当たり前だとしか言わなかったが。
 ちょっと息子の成績が心配だ。

 私立に入れただけあって、高校入試がないのはありがたいけど、だからといってあんまり成績が低いと高校入学出来ない子も出るというし、気を付けておかないとなあ。

 さすがにこの時代に高校に入れないのはまずいでしょう…。
 このあたり、そういう「3年後のこと」なんか考えていないだろうなあ。
 当時進路指導の先生に結構な頻度で呼びつけられていた成績の悪い不良グループの子たち顔が頭をよぎった。
 なるほど…。進路にも困ってたってところだろう。
  
 当時の私は他人事だから、ふーん、程度で流していたけれども、これが「自分のこどものこと」として、準自分のこととして考える機会がまた、回ってきたということだ。

 やっぱり私立にいれておいてよかった…。いい成績をとれ、というのは高望みだということがなんとなくわかってきたので、もう贅沢は言わない。平均的な成績をなんとかとってくれ。そうしたら高校進学はできるから!

 「まじめ」という属性は世代交代時に受け継がれなかったんだなあ。
 この能力でカバーできることも結構あるんだけど。でも、まじめといわれて悩んでいた自分のことを考えると受け継がれなくてよかったのかも?

 心は揺れる、ゴールデンウィーク明け。
 このコロナ関連で勉強してない子は全然しないので「学力格差」が生まれるといわれている。
 年齢が小さい場合はあとから追いつけるのかなあ。

 なるべく格差が小さくなるように、勉強させよう。
 今は1日正味2時間もやればいいほうだろうか。学校が始まってからペースがつかめるまで時間がかかりそうだ。

 まずは始まらないとどうしようもないけど。

自分幻想

 誰だって、自分がいい人だと思いたいところはあると思う。
 自分が不寛容でケチであると思うのは嫌なことではないだろうか。
 でも自分があんまりいい人ではないな…と思うことがあったので書く。

 首相がマスクを配る話をしたが、つまり布マスクは「しないよりはまし」だし、不織布と違って洗濯機でばりばり洗っちゃっても大丈夫なので長持ちするし、再利用できるから、悪いアイディアではないと思っているし、私はせっせと作って友達にあげたり、両親や、姉にも送ったりしている。

 もう100枚近く縫ったから、最初の頃は迷走したけれども最近は形も決まって来て、手順も慣れて、ずいぶんきれいに作れるようになった。
 私から特に一人暮らしで、病気がちの親御さんと2人暮らし…なんていう友達には声をかけて、「マスク、大丈夫?布のでよければ作ったから送るよ?」と声をかけていたのは、いた。

 もちろん断られることもある。「いや、いいよ」と断られた人から連絡があって、その友達の友達がマスクがほしいと言っていると。
 仕事用に白いのを6枚、何色でもいいが家用に4枚、それから柄は問わないがもう5枚ぐらい。そうしたら洗濯に心配がないから、と。
 
おいおい。それ何人?3人?5人?
 聞いたら1人、だと。同居のお母さんがあって、その人の分が「柄は問わないが5枚」だと。

 ちょっとちょっと、それ本気?それを私に伝えようと思ったのが大体間違ってるよなあ…。
というのが第一の感想だった。

 ものすごく厚かましい。正直一瞬ムカッときた。
 私はお金を取ろうっていうんじゃない。もちろん「ただで」友達にはあげているわけだ。
 
 実際に私と30年も付き合いがあるような友達でも、遠慮がちに「もしよかったら、2枚ぐらい譲ってくれないか」とこう来る人も多いのに、顔も知らない、名前も知らない人になぜ10枚もいきなりやらなきゃいけないんだ。
 自分が普段思っているより、ずーっとケチなのも、ずーっと不寛容なのもよーくわかったけれども、気持ちが何だか収まらなくて、結局その友達には、「私を知っている人でも、基本3枚ずつしか渡してないんだ。だから、その誰か知らんが、その人にも3枚。お母さんがあるということだからもう3枚だすし、(友達本人にも)あとアンタにももう3枚出すけど、それ以上は出さない」と返事しておいた。
 「自分のをその人に上げるのはやめてね」と釘も刺した。
 男性みたいだから、その人のお母さんにあげるやつは絶対ピンクのにしてやる。流用しにくいだろうからね。

 マスクは全員でやったほうがいい。こういうことは人数が多いほうがいい。予防接種と同じだからねえ。
 私はその友達の友達…のためにマスクを出すんじゃない。

 こんな厚かましいことをいう人は絶対、店員さんにも高飛車に怒鳴ったりするに決まってる(偏見)。
 その店員さんたちのために、私はマスクを縫うのだ。そうだとも。

 そんなことでも考えないとちょっと腹が立ちすぎだ。
 そいつがちょっとでも文句言ったら取り上げて焼き捨てろ、と友達に頼んでいいだろうか。22歳の時なら多分そういっただろうけど、さすがにこの年になって焼き捨てろ、でもないか。

 はあ。ちょっと元気出そう。
 

コロナウィルスに思うこと最近版

外国にも広がって、なんだか全体的にオオゴトになっている感じがするコロナウィルス。
 まだ周りにかかった人はいない感じだし、もしかしたらとっくに蔓延しちゃっているというような噂は聞こえてくるが、そんなもの聞いたところで何の足しにもならない、そんな小春日和。

 まあ、もうほとんど全員がかかって免疫獲得、大体の人はインフルエンザと同じように回復するが、重症化しそうなリスク群の人は気を付けておかなければならない、という感じで終わればいいな、と思う。
  
 ニュースもコロナ関連のばっかり見ていると気分が滅入ったり、怖くなってきたりしちゃうので注意が必要だ。
 人間は何万年も進化していない。何万年前と同じ構造の脳みそを持っていて、今でも同じ原理で動いている。

 つまり…50人から、200人ぐらいまでの小さな集団で暮らしていた時にちょうどいいように出来てたってこと。
 情報ソースが、10人もあれば、「それは本当のことなんだろうなあ」と思っちゃっても問題ない世界で生きていたんだよね。つまり今、情報元がたった1カ所であっても、ネットで読み、ラインで読み、おしゃべりして聞き、テレビのニュースを何度も違うチャンネルで同じような感じに見ちゃうと、「絶対本当で、そこらじゅうでそういうことがバンバン起きているんだ!」と信じてしまう脳みそをしているということで。

 実はかなり遠く…人力じゃたどり着けないような遠くの話でも、行ったことが10年前に1度、というような遠くの街の話でも、全部「身近に聞こえてきたこと」と同じ重さをもって「聞いておかなくてはいけない大事な情報」として耳に入れてしまう。
 そうするとやっぱり「生き延びるためには、警戒しないと!」と思って準備しないといけないから、とパニックになってトイレットペーパーを突然備蓄したくなったり、夜に目がさえて眠れなくなったりする。

 原始時代は耳に入る情報は近隣のものだけだから、「ライオンが隣村に出た」というのは重要な情報だ。ライオンは隣村から自分の村まで移動できてしまう。でも、「隣の大陸にライオンというものがいるそうだ」は脅威にはならない。
 
 同じ人のことが何度も話に出るのなら、その人のことを知っていれば注意を払わなくてはならない。でも現代のように、「何名がかかりました」という情報が匿名で、何カ所かから聞こえてきたときに、私たちの脳みそはその「何名か」が毎回同じ人たちであることに気が付いて、いうほどたくさんではないと判断できるか。答えはNOだと思う。

 たとえばテレビの1チャンネルで「新型肺炎にかかって亡くなった人は30人」と聞いてから、4チャンネルで同じニュースを違う時間に聞き、そのあと次の日の新聞で同じニュースを「現在かかった人1234人、死亡者30人」という風に書いてあるのを読んだら、30+30+30で90人?と感じてしまう人がいるってこと。つまり元になる情報は1つでも、3回聞いたら、「情報源が3つ」と判断しているということになる。
 違う人が、違うタイミングで同じことを言う場合、これが人口200人の村で口コミしかない場合はその解釈で問題ない。3回も同じ情報が違うソースから来たのだから、ある程度の信憑性があると思っていいと判断してよかった。1万年前なら。
 でも、今は…?

 一億二千万人いるうち、3000人。こういう数字を具体的に思い浮かべられる人は少ない。

  でも30人や60人は体感としてわかるから余計に怖い。教室に一緒にいた人全員が死ぬような気分がしてきちゃうのだね。
 そりゃあ、教室に一緒にいる35人から40人のうち、30人死んだら怖いよ、うん。
 次は自分か、と思うぐらいの死亡率だからね。

 1000人がかかったとだけ聞いたら、高校で一学年8クラスで三学年、全員。
 これならわかる人も多いだろう。全校全滅。そりゃ怖いって。

 でも全国で死亡者が2ケタというのはかなり少ない。毎年交通事故や、誤嚥性肺炎や、インフルエンザでもっと死んでいるんだよね。
 ただ、一億二千分の30って約分したら一体何パーセントなの?治った人ってどのぐらいいるの?とか考えた場合、なかなか数がうまく把握できない、そういうことなんだと思う。

 感情というのはなかなか制御できないものだと思うけれど、この際だしニュースソースを一本に絞るか、見たり読んだり聞いたりする回数を減らしたほうがいい。私たちの脳みその構造が原始時代と変わっていないということを考えたら、情報が入れば入るほど不安になってきてしまうのはしょうがないこと。自分で環境を整えるしかない。

 日本では検査の件数が少ないのでかかっている人が下方修正されているのでは、という噂は根強い。目に見えないだけにそういう想像を始めてしまうと誰も「そんなのあり得ない」とは言えないものだから。でも「もっといる」とも言えない、そういうつかみどころのないものは不気味だから、みんな情報がほしい。それが噂話としてたくさん聞こえてくると「情報ソースとしてあり」と脳みそは判断する。そう…一万年前なら、有効なんだと思う。でも今、それを信じてパニックになったところで、対処法がない。

 それと、もし検査している件数が本当に少なくて、実はもっともっと広がっていて…というような怖い話が本当だとしたら、「原因不明の肺炎の人」がもっとぞろぞろ出てきてもおかしくない。でもそういう話はないしねえ。
 「肺炎」ぐらいまで行けば、隠すも何も、病院で手当てしないと!と誰もが思うぐらい症状が重くなるのだから、病院に搬送、少なくとも診察までは行くはずで、隠しきれるものではないと思う。つまり「危なくなっちゃったら、病院に集結」してしまうので、検査しようとしまいと、発見されてしまう。
 これは日本だと、ほとんど全員が保険を持っているので病院にかかる人が多いから出来ることで、健康保険が全員にない国……たとえばアメリカとか、イタリアもそう。あれは死んでいる人が多いのは「お金がなくって病院に行けない」人が死んでいるんだよね。厳しい話だけど。

 かかって重症化した人は確かに治療が必要なのはどこの国でも。でも軽症なら、治療をするのは非効率なんだよね。軽い風邪程度で終わっちゃうから。だとしたら、やっぱり誰が罹患しているのかという犯人捜しをして不安がっているよりは、みんながしているから、とマスクをかけて顔にさわるのや、飛沫が飛ぶのをそろって防ぎつつ、手洗いうがいでどうにかするほうがいいと思う。
 この「みんながしているからする」というのはマスクに限っては悪いアイディアではないのかも。
 「マスクは病人がするものだ」といってマスクをしないヨーロッパの感染の広がりは早かったものねえ。

 まあ、マスクは全然買えないけど、手作りマスクの広がりもある気がするし、一応仕事で使う人のところにはあるみたいだし、待つしかないなあ。

 手洗い、うがい、バランスのとれた食事、睡眠。ついでに人混みを避けられる人は避けて、ストレス発散出来るように楽しいことをちょっと用意して過ごそうと思う。

内定辞退セットに思うこと

 内定をいくつかもらって就職を決めて、行かないことにした=内定辞退、となったとき、立ちすくむ新社会人予定の人が増えているらしい。
 内定をひとつだけ決めてもう就職というのは昭和生まれが就職していたころでも珍しかった。学校からの推薦枠で入ったというような就職方法でない限りは、みんないくつか内定をもらうのが典型的な就職活動だと私は思っている。ちなみに私が就職したときは、行かないと決まったときに就職活動用の本に載っている「内定を断るとき」という章を見て、電話をした。
 「他所へ内定が決まったんですね、おめでとうございます」なんてあっさりしたものだった。

 やはり断るのは気まずい。それは昔もおんなじだ。でも断らなくて予定されている入社式にいかないとなると会社の方に迷惑がかかるので連絡必須だということになっていた。今は、どうしよう、と思っているうちに期限切れになって連絡をしない子が増えているのだとか。

 今ネットを調べてみると、断る時の手紙を書くためのセミナーとかがあるらしい。最近は、本ってないのかなあ。
 電話で断るのはお手軽だが、これも出来ない子が増えているのは多分、ケータイがすごく普及したからだと思う。

 昔は、お友達と電話で話をしようと思ったら「おうちの電話」にかけなくてはいけなかった。友達が出てくれるとはかぎらない。最初は名前を名乗って、「だれだれさんはいらっしゃいますか」とこう、友達を(または彼氏を)呼ばなくてはならなかったわけだ。
相手は友達、彼氏の親御さんや、おばあちゃんおじいちゃん、兄弟姉妹。全然知らない人だということも多かったから、都合ある程度丁寧にやり取りが出来なくてはならない。

 気まずいような、照れくさいようなこともたくさんあった。問い合わせなんかも今だとネットからフォームに記入して…というようなことも出来るが、昔は電話しかなかったから、就職の時のやりとりもかなり電話が多かった。問い合わせをするときにそういうこともだんだん練習出来る。
 どこかの会社に電話をかけても、出た人がいきなり本人だといいけれども、これも「自分の学校と名前を言って、なんとかさんをお願いします」とこれまた呼ばないといけなかった。何回もやるとどうにか、慣れてくるわけだ。

 でも今はまずケータイ(スマホ含む)だからねえ。その番号にかければ、出る人は電話の持ち主確定。
 お友達に電話をかけたら本人以外出ないのが基本だ。
 取次ぎのやり方も知らないし、丁寧なあいさつもしたことがないまま、大学生まで来ちゃうわけだ。
 メールでやり取りの就職活動で、就職したらそりゃあ…電話のやり取りの経験値が上がるわけがない。

 それで電話をかけるのが怖くなるんだよね、無理もない。ちょっと気の毒だな、と思うと同時に、そういやあ、うちの息子も電話の取次ぎが出来ないねえ…とちょっと思いついた。後で実習したほうがいいな。

 今会社に勤めている人で、人事権のある人はやっぱり私たちと同じような世代で、電話でのやりとりを練習してきた世代だと思う。または出来なくても勤めているうちに経験値が上がった世代だろうから、ちょっと苛立つかもしれないけれども、今の世代の新入社員候補たちのために、「内定を辞退される方はこちら」というボタンを会社のサイトに設置してはどうだろう。

 学校と名前を書く欄をまずおいて、そのあとにラジオボタンで箇条書きに「内定を辞退される理由をお選びください」とかにして、「ほかの会社に内定が決まった」「思っていたのと仕事の内容が違ったので」「通勤時間が思ったより長かった」「ほかにもっと合う仕事があるのではないかと思ったから」「理由はないが、気が進まなかった」とか、並べておいて選んでもらい、下に「ご意見があればお書きください、500文字以内、とか自由記入欄を作っておくのだ。

 どうせ断るのならしらばっくれて入社式にこないより、はっきりわかるほうが手続きの関係からもまだマシというものだ。
 お互いのためにいいと思うんだけどねえ。

 あんまり辞退が多い場合は、その理由の方を考えたほうがいいような気もするし、学校推薦枠で来ない場合は学校の方へ通達して次の年は求人を出さないとか、そういうことになるだろうけど。
 いつまでも昔はこうだったというやり方は押しとおせないと思う。社会人になってからある程度は合わせないといけないだろうけれども、短い期間で社会人としての常識だ!身につけろ!というのは厳しい。入ってから教えるけど、入る前はもう、これでしょうがないんじゃあ、と思うのはやっぱり私に、息子がいるからだろうか。

 どこにでも優秀な人材がザクザクくるわけではない。名の知れた大企業ならともかく、中小企業にまで回ってくる人材というのは私含めて、それほど優秀じゃないことだってある。こういう「あとから訓練でどうにかなるようなこと」で人を切っていたら人数が足りなくなる。まあ辞退する人に気を遣うぐらいなら入ってくる子にもっと気を配ってあげたいということはあるな、と思うけど。
 内定辞退セットの下敷きをなぞって手紙を書くというのを見て、ペン字教室か!とつい、突っ込んでこれを書こうと思ったのでした。

コロナウィルスってどのぐらい怖いの?

最近マスクが買えない話だけでなく、感染が怖い、という感想をよく聞くようになった。
 まあね……私だって昔アメリカにいたときに「炭そ菌」が郵便でばらまかれて死んだ人が出たときには郵便物をさわるのがなんとなくいやになったものだし、新型インフルエンザが流行った年にには手洗い石鹸を洗面所におくようにしたし、正直今回のコロナウィルスだって知っている人がかかって入院だなんだとなったら嫌だな、とは思う。

 でも、本当にどこまで怖いんだろう…と思ったとき、あんまり確信のある情報というものはもっていない。つまり「なんとなく薄気味悪い」だけなのだ。目に見えない何かが、空中に飛んでいて、それを吸い込んだ瞬間死ぬ、無味無臭のガスのようなイメージ。
 でもそれは気分の問題で、うそっぱちだ。

 こういうの専門家がわかりやすい話だしてないのか?と思ったので検索をしてみた。
 ここで注意をしなくてはならないのは、ネットに載っている情報にはきれいさっぱり100パーセント嘘、大嘘。というものもあるということ。半分ぐらいは本当だけど、半分ぐらい嘘、とか、かなり本当だけどところどころ嘘、とかも混ざっているので、なかなか見極めが難しい。

 つまり「医学博士」と書いてあっても、その人が効果を保証するわけではないサプリメントとか(こういうのはお金をもらって名前を貸すのだとか)、毒でもないが、効きもしないXX療法とかもあるので(そういう人は本を売ってお金儲けをしていたりする)、肩書がついていれば全部本当かというとそうでもない。

 読むほうもある程度疑いつつ読むべき、と自分に確認しながら探す。
 あんまり怖い情報に偏りすぎず、なおかつサプリの宣伝なんかじゃないものがいいよね!
 
 体の免疫体制が整ってなかったら、体にウィルスが入ったとき発症するかもしれない。これはウィルスでかかるもの全部に言える。私がかかる可能性だってある、多分全員にある。でも、怖いな、怖いな、と思いながら待っているよりは、「もう出来るだけのことはやった!あとはくるならしょーがないわ!」と思いながら待っている方がいいような気がする。
 割と上の方に出たのが【コロナウイルス感染拡大は「3月までに終結」と大御所が断言する理由】というインタビュー記事。

 ブルーバックスアウトリーチ、というサイトらしい。ブルーバックスというのは講談社が古くから出している一般向けの教養分野の新書で、確か化学とか、数学の系統の本が多かった。中学生ぐらいから読めて、うちの父が時々買っていたり、田舎の中学校の図書室にも並んでいたりしたから私もなじみがある。
 
 このインタビュイーの「根路銘国昭さん」て、誰だ…と思ったら、ウィルスの研究をしているひとらしい。どうやったらうつりやすくなっちゃうのかとか、ウィルスがどのぐらい生きているものなのか、とか感染経路のこととか。ネットでしらべたらこの人は研究者で、論文をたくさん出している人のようだ。なんせこの名前が珍しいので同姓同名の人があるとも思えない。

 この人のインタビューをみてわかったこと。
 「疫学」というお勉強の分野があること。つまり、うつったり、かかったりする病気の仕組みを勉強する学問のようだ。
 コロナウィルスは、1メートル空中を飛んだら、もう死んじゃうこと。えーーーー。弱そう…ってこと?

 それに比べて、インフルエンザはこう。
「インフルエンザのように1回の咳で1万個以上のウイルスが死ぬことなく長時間浮遊し続け10メートル以内のほとんどの人を感染させる『空気感染』」カッコ内青文字、インタビューから引用。

 えー。インフルエンザのほうが断然、うつりやすいってことね…。
 空気感染とちがって、コロナウィルスはつまり至近距離で、つばとか痰とかが飛んだら感染の可能性はあるけど(これが飛沫感染)、1メートル以上離れていたら多分、大丈夫ってこと。

マスクをかけるべきなのは咳が出る人で、予防にはあんまり役に立たないこと。…うーん、この情報は新しくないな。

 インフルエンザにかかる人は年間日本でも1000万人(多いね)。その中でインフルエンザがこじれてなくなる人とかも含めると死ぬ人が年に1万人…ってそんなに死ぬものなの?多くない?まあ…冬に風邪ひいたと思ったら入院して、こじらせてなくなるお年寄りが多いことを考えたらそんなものなのか?
 
 インフルエンザもハイリスク、つまり乳幼児、お年寄り、持病のある人が亡くなる人が多い。まあ、これは納得。そういう話は前にも聞いたし、元気な小中高校生がそんなにぱたぱた亡くなったという話は聞かないね。
 
 なぜ私たちがインフルエンザが流行っていると聞いても「マスク!手洗い!怖い!」とならないのは、毎年のことで慣れているから、ってことなのか。インフルエンザって毎年来るもんね。

  コロナウィルスも、元気な小中学生、高校生に感染したとしても、風邪?ぐらいで終了するらしい。ただ、ハイリスクの人たちがかかると重症化しちゃうことがあるのだそうだ。

 あとは中国で人がたくさん死んでいるけれども、普通のインフルエンザでなくなっている人との区別がついていない可能性がある。つまり症状が似ていること、インフルエンザもハイリスクの人がかかったら亡くなる率がかなりあること、病院がすし詰めで締め切られていてウィルスが蔓延している環境にあるので逆に培養しているも同然の環境であること、空気を入れ替えて、ウィルスを追い出すのが方法としては有効であろうこと。

 しかし、こういう話はどうしていっぱい出てこないんだろう。みんなが怖がっているのはなぜなんだろうなあ。
 英語の情報とかを調べたらもっと出るのか?
 そんな話を夫にしていたら、「自分が信じたいことばっかり読んでいるとそれはそれで正しい情報にたどり着きづらいと思う」とざっくり一刀両断だった。ちぇ、理系め。

 だってさあ…私は実は怖がりなんだよ。マンガで終末ものとかの登場人物でいうと、クライシスが起きてしばらくして大変になってくると、「こんな思いをするぐらいなら一思いに死んだほうがマシだ!」といって断崖絶壁から飛び降りちゃうようなタイプというか…。ドキドキし続けるのは嫌いなのだ。

 このインタビューによると、あったかくなってくると流行らなくなるらしい。そうだといいなあ。こういう時に誰が正しかったかというのは時間がたてばわかってくる。そして研究者とかじゃない一般人も、学んでいく。前回の新型インフルエンザでマスクがなくなった時みたいに、「なんだか思ったより大したことなかったねえ」で終わるかもしれないのだ。きっとまたこんなことが起きたときには「あの2020年だっけ、あの年にコロナウィルスの肺炎ってのがあったよね」「あったあった、みんなマスクがないないって大騒ぎになって、店の棚、からっぽだったよねえ」…なんて笑いながら話せる時が早く来るといいな。

 コロナウィルスは思ったより弱そうなウィルスだった…ということが分かっただけでも、よかったと思う。
 あと、アルコールのスプレーとかじゃなくて、せっけんでも効果はあるそう。手ピカジェルじゃなくても当たり前のせっけんでいいってことだね。

 きっと間違ったことがテレビや雑誌や、ネットや、政府の発表にも今は入っていると思う。後から見たらこれが正しかったんだ、ということをまとめて誰かが出してくれたらいいなあ。情報を正しく選ぶのはなかなか難しいというのを痛感しただけに終わった。

 

マスクの買えない時に

 マスクがオークションやフリマのサイトに大量に出品されているらしい。
 身の回りの話題として「マスクが買えないねえ」というのが割と共感の呼べる話題のひとつとして雑談に出ているのを何度か聞いたし、確かに全然マスクは近隣のお店にはない。幼稚園の子どもだったら、まあ…というサイズの子ども用が数枚売っているのを見たぐらいだろうか。

 私も家にある布マスクの数をチェックして作り足そうかな、と思うぐらいには気になる。もうそろそろ花粉が飛ぶシーズンだし、たとえ布でも「ないよりまし」ということはあるだろうからだ。(鼻水がたれそうになっているのが外に見えないだけでも、私にとっては意味がある)新聞記事でも、マスクの増産の設備投資に公的な補助を出す、というようなのを読んだぐらいだ、こういう風に大騒ぎになるほど品不足が起きるのは日本ではまれなことだと思う。

 転売は、確かに儲かる。うちの母のように、ないとなったらパニックになって突然要りもしなかったものが買いたくなる人というのは一定数いるからだ(父が止めている)。今回は伝染する病気がからんでいるため、恐怖にかられた人たちが買い占めたり、転売品を高い値段を出して買う…ということを思えば、これはそういうものを売りつけるのにいい機会だと思う人が出るのもしょうがないことなのかなあ、とは思う。みんなお金はほしいよね。

 買占めや転売を見るたびに私は思い出すことがある。
 それは、25年以上前のことになるのか?もう。コメ不足になったとき。
 米が記録的な不作で、当時ほとんど米の輸入をしていなかった日本だが、タイの米を輸入したぐらいには、不足していた年のこと。生協でお米を配達してもらっていた実家でも、タイ米しか買えない日が続き、一人暮らしをしていた私も、スーパーのお米がみんなタイ米になった。実家で一度タイ米を食べた私は、買って食べるほどでもない、と判断。

 今はタイ米をおいしいな、とエスニックレストランで食べることが出来る私だが、当時はそういう味に慣れていなかった。小麦粉食に移行、めん類や、お好み焼き、パンなどを食べていたのだが、基本1日1度は米を食べていたため、コメ不足にはちょっと参っていた。

 個人商店のいわゆる「米穀店」からお米を届けてもらっていた友人の家は変わらず米が届いたというから、「売り渋り」とか、「お得意様限定」とか、「一見さんお断り」とか、そういう感じで、お年寄りの中には買えるうちに、と何百キロも買いだめをしたという新聞の記事を読んだ覚えがある。

 会社帰りの自転車での通勤路の米屋さんに、ダメもとで入って、聞いてみた。
 当たり前にキロ単位で売っているというではないか。びっくりした。
 「お米がどこでも買えなくって。ありがとうございます」と喜ぶ私に、本当にそうですねえと相槌を打ちながら、あんまりたくさん買って保存しておくとおいしくなくなっちゃうので、今食べる分だけ買って、また来た方がいい、と勧めて、精米してくれた。

 そのあと、私が周りにお米が買えなくなっている人が多いので、このお店のことを教えてもいいか、と聞いたら大丈夫だと請け負ってくれた。

 その時は、お米屋さんがお店を閉めてしまって、お得意様の配達にしか回っていないというのが当たり前になってしまったころで、電話をかけても「予約の方にしか売っていないんですよ」と断られた話もよく聞いたし、お得意様として登録されて配達をしてもらっていた人だって、10キロじゃなくて5キロにしてくれとか、ちょっと値段が上がっちゃうとか、なんていう話をされたという話だって聞いたほどだった。私がその通勤途中の米屋さんに目が行ったのだって「お米屋さんなのに開いている」からだったような時期だったのだ。

 初めてきた人にも、スーパーの安いお米とそれほど違わない値段でブレンド米を売ってくれる(コシヒカリとかのブランド米はそれなりに高かったが、それはどこで買っても高いからね)お米屋さんというのはもしかしたら全国でそこだけとはいわないものの県下にそこだけだったのかもしれないと思うぐらいには、珍しかった。

  「うちは売りますよ、誰にでも、なくなるまでね。お米が本当になくなっちゃったら、みんなでタイ米を食べましょうよ」とニコニコ笑って言ってくれるお米屋さんのご主人の心意気が、美しいな、と思ったのだった。

 家に帰って食べた白いご飯はとてもおいしかった。またしばらくは小麦粉で頑張れそう…と思った。
 次の日の昼休みに私がそのお米屋さんでコメが買えた話はあっという間に社内をかけめぐり、私は米屋さんの場所をお局さんに聞かれた。そこから話は全体的に飛び火してかなり会社から近かったのでみんなが昼休みの残り時間やら、就業時間終了後に財布をもって米屋さんへ駆けつけたり、おじさんたちは家に2キロ持って帰ったり。みんな大喜びだった。

 休日に遊びに来た友達に、そんなわけでお米あるんだ、食べる?とご飯炊いて出したらすごく有難がられた(うちは小麦粉祭りだったが、その子はパスタ祭りになっていたそうだ)。
 「その米屋の場所教えて、買って帰る!」という県外の友達を案内したこともあった。

 理屈から行くと、多分値段をあげてもみんな買ったと思う。そのぐらい貴重で、足りなかったのだ。
 初めての人に義理なんかない、と売らなくてもよかっただろう。自分がキープしている人との関係性をよく保つためには、在庫が欠かせないからだ。

 でも値段を高くもしない、売り渋りもしない。みんなでこの危機を乗り越えましょう、だめならみんなでちょっとずつ大変な思いをすればいいのだと言い切るその人を見て、わたしも見習いたいと思った。

 そして…結局米はそのお米屋さんからなくならなかった。それから引っ越すまで、私はその米屋さんでお米を買い続けた。うちの会社の人も相当数の人がそうしていた。多分、あのお米屋さんはあの米騒動のあと固定客がとても増えただろうと思う。いつのまにかまた、お米の収穫シーズンが来て、コメ不足は見事解消したのだった。
 
 人の弱みに付け込む商売は儲かるのかもしれない。買占めもすれば安心なのかもしれない。でも、私はあのお米を一人暮らしの私に分け隔てなく売ってくれたあの人のことを考えると、自分ではやらないでおこうと思うのだ。
 「みんなでわけよう、そしてだめならみんなでちょっとずつ不便を我慢しましょう」そういうスタンスでいきたい。
 これが、日本で最後の食べ物だとか、これがないと間違いなく死ぬとか、絶対病気がうつらない魔法のようなアイテムだったら…私だって息子のことを考えたら手に入れてやりたいと思うだろう。

 でも…今のところはそこまで深刻な話でもなし、マスクにはそんな魔法のような効果はないらしい。
 だからちょっとだけ…ちょーーっとだけ、格好つけたいなあと思うのだ。

 こういうのも、見栄っ張りというのだろうけれども、あのお米屋さんのご主人は、かっこよかったなあ。ああいうことが言える人に、私もなりたい。

 そして、多分だけど、マスク不足は近いうちに解消すると思う。終わってしまえば「あれはなんだったんだ」ということになるんだよねえ。

デマとマスク

親しくしているママ友さんと話をしたときに、マスクの話になった。
 つまり今話題になっている「コロナウィルス」の問題で、そこのおうちの2人のお子さんのうち、1人は「そんなのいらないよ」とマスクをせず通学しているのだが、もう1人のお子さんはマスクをしないで電車に乗りたくないというらしい。

マスクを買いに行ったらもう棚には一枚たりとも残っていないという状態だと。
 おばあちゃんが作った布マスクは柄が派手なのがはずかしいからしていかないという追加情報もあったので、恥ずかしいのに怖いのが負けるぐらいなら、まあそこまで深刻ではないのだろうが、毎朝駄々をこねられるのも面倒だろう。
 私は花粉症なので、マスクをカバンに持っていることが多い。一応カバンの背中のポケットに個包装のやつがはいっていたはず?と思ってさぐると案の定、2枚入っていたのであげたら大変喜ばれた。

 しかしWHOによるとマスクよりは手洗いのほうがよっぽど効果があるらしい。つまりマスクは必須ではないんだよね。
 気持ちの問題を別にすれば、だけど。これは大型の地震が起こったあと、地震が起きた地域以外で電池が売り切れる現象と同じだよね。

 ちなみに、麻疹のウィルスは空気感染で、5m離れていてもうつるらしいけど、コロナウィルスは飛沫感染……というと、「はっくしょーい」ってなったときのしぶきがかかったら…というタイプ、それから接触感染というと、インフルとかと同じで、ウィルスが付いたところを触った手を口に運ぶと…というタイプ。

 そうなると、空気の乾燥を防いでのどの調子をよくするというような感じのこと、それからかかった人がくしゃみとか咳をしたときに飛ばないようにするという理由でのマスクは役に立つのは立つけど、あとはうっかりウィルスがついた手で口とか鼻とかを触ったりしないのを避ける働きがあるぐらい?

  正直私としては今の時点では遠くのコロナウィルスより花粉のほうがイヤかもしれない。花粉は確実に飛んでくるからねえ…。
あと、免疫がしっかりしていればウィルスに感染していても症状が出ない人もいるとか。これはあれだ、インフル。あれと似てるよね。小さいこども、それからお年寄りは免疫力が低いのでかかったとき重症化しやすい。あとは持病がある人が問題になりやすい。

 結局なくなっているのも高齢者が多いらしい。インフルエンザと同じぐらいの警戒具合でいいんじゃないのかなあ、と思う。
 今まで発見されているコロナウィルスいろいろは、感染のピークが冬。つまり風邪にしろ、ちょっと前に流行って大騒ぎになったMERSとかSARSとかも真夏に流行ったりはしないらしい。暖かい気候に弱いウィルスなんだね。

ってことは、今から1カ月たったら、感染している人がぐっと減るってことだ。【国の感染症の研究所のサイト】の情報を読むと、大体そういう感じなんだなーってことがわかる。
 
 こういう時こそ、落ち着かないとね!
 私は持病のない中高年で、まだ「老齢」とまではいかないのでまだいいけれども、乳幼児のある親御さんたちや、持病のあるお年寄りはきっと心配だろうなあ。
 家に帰ったら手を洗って、ちゃんと睡眠をとってご飯を食べて免疫力をあげて、持病がある人に、お年寄りに、そして感染者が増えている場所にマスクを届けてあげられるようにしないとね。
 あとはこういう時にもマスクが必要な仕事をしている人たち、たとえば介護職とか、給食を作る人たちとか、病院勤めの人とかは困るだろうしな。そういう話をしていたことがあったなあ。

 そういやあ、7年かな?前ぐらいにこういうマスクがすごく品薄になったときがあったのを思い出した。
 新型インフルエンザが流行した年で、息子の幼稚園で「マスクを持たせてください」と言われて、びっくりした年だ。
 あわてて買いに回る人がいたのだが、私はマスクを縫った覚えがある。結局マスクが言うほど役にたったわけでもなく、インフルエンザはどれにしろ、似たような感じで例年通り冬が終わって、暖かくなったらマスクが激安!50枚100円で投げ売られたのを見たのはあの時じゃなかったかなあ。次の年の花粉症の時はマスク代がずいぶん助かったものだ。

 待てよ、私マスクもってないか?そうだよ、去年の花粉のシーズン終わったときに余ってたはずよねえ。
 あと、息子が給食当番でマスクを忘れると学校で個包装のマスクくれるんだけど、その次の日に個包装のマスクを1つ、学校に持っていくことになっている、それ用の個包装マスクがまだあるはずだ。あれは確か、30枚入りとかの大きいパックだった。
*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…
……というわけで洗面所の下の物入れをさぐったところ、個包装のマスクが20枚ぐらい、ビニール袋に重なって入った未使用のマスクが25枚と15枚あったのに、なぜかもう1箱、新品の状態からちょっとだけ使ったのが出てきた。フィルター付きガーゼのマスクも(これは不織布のマスクが嫌いな私が花粉の時期に使うのに気に入って買ったやつだ。高い)2枚入りが3袋、それから「本当かなあ」と思って買った、「メガネが曇らないマスク」が1パック出てきた。

意外とあったな…。
 ママ友さんに連絡して、使いかけの箱のやつでよければ、半分どう?と声をかけたらすごく喜ばれた。
 全部じゃないのは、私が花粉症用に必要だから。
 花粉のシーズンになくなったら、その時はまた、考えればいいや。
 思うに、みんな2、3週間たったら沈静化してくると思うんだよね。ウィルスが温暖化に弱いのもそうだし、みんなずーーっとパニックにはならなくって、慣れてくるものだし。

 笛を誰かが吹いても、踊らない気構えというものはちゃんとした大人には必要だろう。
 どうしても怖いということなら、私は不要不急の外出を控えることも出来るんだしね!立場としては人混みに行かなくていいだけでも、有利なんだし。
 自分が肺炎になるぐらいはやったら、その時は病院へ行けばいい。日本は医療も進んでいるし、ここは案外都会で病院までも近いからね。アメリカに住んでいたころは病院まで数十キロ、ということもあったし、それに比べたら全然安心だ。18世紀ならともかく、日本で「野戦病院みたいなこと」にはならない。
 コロナウィルスの情報は【政府が出しているサイトで】ちゃんとしたのを読もう。SNSとかツイッターは面白半分で出した情報を真にうけて本気でリツィート、シェアして、「間違った情報でも、たくさんの人が言っていたら本当くさい」という感じになっているものがあるので、こういう時には、それだけを情報源にすると足もとをすくわれることがあるので気をつけないと。

 そういや、思い出した。ちょっと大型の地震があったとき、シェアされてきた友達からの情報で、「地震の時に湯船に水をためていると家が倒壊する」というものがあった。湯船に水をためている時は、小さいお子さんや、ペットが落ちておぼれるので注意、という情報も聞いたが、そっちは理解できた。
 でもなぜ「家が倒壊するのか」は最後まで謎だったし、地震対策のどこのサイトを読んでも、自治体で配られている冊子を読んでも一度もそういう記述は出てこなかった。それでも私のところへ何カ所かから届いたことから察するに、たくさんシェアされたものだったのだろう。
 ほんと、デマの見本みたいな感じだった。ああいうのに引っかからないように気をつけよう。

マスクを渡すママ友さんとは明日一緒にケーキを食べながらおしゃべりしようか、という話になった。ちょっと楽しみだ。

自分の面倒を見る

 20代の時は何とも思わなかった。--たとえば徹夜をするとか、旅行に行くとか、ちょっとぐらいご飯を食べないとか、そういうことが割と平気で出来たものだ。
 寒いとか暑いとかは感じないわけではなかったが、それで体調不良というほどの問題が出るほどでもなく、冬はコートを着ていれば問題なかったし、夏は水分補給に気を付けておけば全く問題なく活動出来た。

 故に「みんなと同じように問題なく」生活していた。そういうものなのだと、別に何の疑問も感じずに。

 そういう日々は遠く過ぎ去ったのだと自覚したのは40代になってから。体に悪くなさそうな食事をとり、夏だけでなく冬も水分補給には気を配り、ある程度長時間寝ておかないと体調が悪くなり、気分が引きずられて元気が出なくなる。

 それだけではない。冬、特に気温が一桁に下がる時があるような時に、とても分厚い下着を着ておかないと体温が下がるからなのか何なのか、調子が悪くなる。靴下なんか2枚履いてもいいぐらいだ。腰にだとか、首の後ろに貼るカイロを貼っておくと調子がいい。そうでないならせめて腹巻きとか、首のまわりにネックウォーマー。

 座る時は座布団が温かくなるタイプだとか、床暖が入っているとか、こたつとかが望ましい。どれもないなら部屋の室温を高めにするとか、湯たんぽを膝にのせてひざ掛けをかけるとか、そういうことをすると目に見えて体調がいいほうへ向く。体調がよくなるというか気分があがるというか…。

 他の人はそういうことをしなくても平気かもしれない。でも私はそういうことをしないとダメなんだなあ…ということをここ数日の冷え込みの中、実感することになった。私はうちの母に似ているとよく言われる。姉とも話をするが、似てほしくないところばっかり姉も私も母に似ている。

 母はストレス耐性が低い。初めての子(姉)を産んだ時は出産後にノイローゼだと言われて入院したことがあるそうだし、家族の入院だとか介護だとかで負荷がかかるとあっという間に病むし、私は入院患者の心配よりも母をどうにかしないといけないというのがすごく面倒だと思ったことがあるぐらいだ。
 母も冬は気分が落ちるらしく、一段と相手をするのが大変になるのだが、いくら勧めてもカイロを腰に貼らないし、厚手の下着も着ない。「そんなことしなくても大丈夫」とか「そんなの格好悪い」とかいうのだ。お金のことを気にするほうなので、私が箱ごと貼るカイロと貼らないカイロの両方を寄付して、少なくなったら持ってくるからと言っているのに。美意識というやつなのだろうか。何の役にも立たないと思うのだけれども。それとも単に暖かくすると調子が悪くなりにくいという効果を実感していないだけなのだろうか。
 春になったら調子がよくなって、いろいろやる気が出るということから考えてもわかりそうなものなのになあ。
まあこれは「人のふりみて我がふり直せ」系のことなのであろう(と無理矢理片付けておく)。

 私もストレスに弱いかもしれないというのがちょっと怖い。
 無理がきかなくなる年齢でもあることだし、他の人は平気でも、私はカイロを貼っておくほうがいいのだ、多分。
 他の人はそれほど眠らなくても大丈夫かもしれないけれども、私はちゃんと眠るほうがいいのだ、多分。

 予防的対処に努めないとやられるんだなあ…ということが分かったのは最近だけど、時々はっとなって「あ、そうだ」と体調が気分が落ちかけた時気が付けるようになってきたのは多分いいことだ。
 
 体中がポカポカしていて、大好きな飲み物とおやつをテーブルに置いて、好みの本を読んでいる時は気分が暗いか明るいかなんて考えていない。大体寒くてお腹がすいている時なんだよね、まずいのは。冬ってホント、面倒くさい。
 早く春にならないかなあ。

地震の話

元々、予約投稿しておく私のブログなので、地震のあった日に事を思い出して書く1月17日の日記や、3月11日の日記に地震の話がのることは少ない。

 これを書いているのが1月17日なので、遅ればせながらその時の話をしようと思う。
 私は近隣県で阪神大震災の朝を迎えた。つまり揺れはしたが、神戸ほどではなかった。
 被災者に友達はいたし、友達の友達に亡くなった人もいた、そういう地震。神戸市内や、隣の市に住んでいた人は九死に一生を得た状態だったし、身近で家の下敷きになって亡くなった人々を見たという友達もいた。

 何カ月も何カ月も「怖かったねえ」と話題になったし、近隣県と言えども家が建て直しになった人もかなりいたように思う。
 
 「俺はな…。あの日からずっと考えとるんや」と語る友達がいる。
 なぜあんなに簡単に突然人が死んでいき、そしてそれは自分ではなかったのだろうと考えているのだと。

 答えは出ていないらしかったが、そんな話をしたのが震災後10年ぐらいの時だったと記憶している。

 その人に今年の正月、久しぶりに会った。いまだに独り身の彼には、今でも考えているのかとは聞かなかったが、彼は鬱状態にあって通院しており、「去年は生き延びるだけで精一杯だった。今年の目標も生き延びること」だと言っていた。
 とても心配だ。

 あの地震が影響を与えなかっただろうかと思うと、やっぱり影響があったのだろうとしか思えない。
 そしてそれに対して何もできないことも。
 
 災害はいつやってくるのかもわからないし、人間の力で何が出来るわけもない。突然人が大量になくなって、それを目の当たりにした人は傷つく。
 どれだけたくさんの人が無念と思い、なくした近しい人を悼み、つらい思いをしているのだろう。

 毎年この日が来るたびに、答えがない問いを思い出してもやもやする。

 耐震基準があがり、家具は固定されるのが当たり前になり、防波堤は出来た。きっとそういうことすべてが災害で死ぬ人が減っていくことにつながっていくのだろう。

それでも、なぜ私ではなかったのかという問いにこの世で出せる答えはない。

 なくなっていった人を悼むほかにも、生き残った人にも共感が必要な気がする。
  ああ、もやもやするね、そして何にも出来ないね、と。生き残ったからいいじゃないか、ではない。
生き残ったからこそ、つらいこともある。そしてそれを「ぜいたく」だと言って責める人がある。

 だから、何も出来なかった人のひとりだったこと、そして生き残った側にいるのだということを毎年思い出してもやもやしておくことにしている。近くにいる人を、理不尽なまでに突然なくしてしまった人にしかわからないことがきっとある。
 直接かかわることがなかったから私の思い出し方というのはとても…周辺的なのだ。こんな言葉があるかどうかわからないけれども。
 
 それがきっと直接は関わらなかった人の「忘れない」ということなのだと私は信じている。なくなってしまった人のためにも、生き残った人のためにも。

ガラケーからスマホに変更

私はがんばったよ、今日。

 朝一番で実家に出かけた。目的はガラケーからの機種変更。田舎なので近隣にキャリアのショップはあんまりない。実家から電車に乗らないといけない場所にある。いくら田舎だと言っても、つまりお店が少なければそこに集中するのは避けがたく、こんな田舎なのにびっくりするほどショップが混むのが特徴。

 10時開店だから、と思って着いたのが10時10分で、すでに10組待ち。あーらら。
 私は熱いお茶の入ったサーモスと飴玉、kindleまで持って準備万端。
 父と母に大体目星をつけておいたスマホのカタログを見せたり、お店の見本のスマホを触らせたりして待ち時間をつぶした。

 大体のプランが手元にあったので、それを参考に……と思ったが、前日私が自分の地元で作ってきたプランは、その店のお姉さんが10分以内で説明して作成して印刷してくれたのに、今日担当してくれた若いお兄ちゃん、仕事がめちゃくちゃ遅い。
 彼がプランをお姉さんが作った通りに店の端末で作成して出力するのに1時間近くかかった。

 それをいちいち確認して、変更して私が3種類ぐらいに絞っておいたスマホの中から在庫のあるものを確認して、契約の確認をしてスマホをお店の奥から出して、ケータイ電話からアドレス帳をインポートし、フィルム(別料金でゲット)を貼って……まで行くのに、なんと店について待ち時間1時間を込みで4時間半、かかった。
 父はのんびり待つ感じだったが、母は店員さんにぶつぶつと文句を言うのでそれを止めるのが面倒だった。しょうがないじゃないの、仕事の早さなんて上げようと思って上がるものではない。文句を言って早くなるものでもなし、いい大人のとる態度じゃないよ、とおさえながらの待機となった。

 多分仕事に慣れていない人なのかもしれないけど、4時間半はあまりにもひどい。それともこのぐらいかかるものなんだろうか…とは私も思ったけど、それを口に出し、態度に出し、相手に嫌味を言うかどうかはまた別問題だよねえ。私が子供のころはなんにつけ行儀には死ぬほどうるさかったのに、まさか外で、いくら実際にものすごく手際が悪いとはいえ店員さんにそういう態度を取るとは思わなかったのでちょっとびっくりした。年を取って色々、抑えられなくなっているのかもなあ。前頭葉の働きが悪くなるっていうしね。

 ガラスフィルムが1枚3300円、母に買ったケータイのカバーが5500円にちょっと目が飛び出た。
 ヨドバシカメラとかで買えば多分、フィルム1200円ケータイカバー2000円というところだろう(結構上等だった)。
 まあでも、画面に貼るガラスフィルムはあんまり安いと操作感に違いが出るし、ガラスフィルムを張るというのも初めての人には荷が重いだろう。(私のスマホのフィルムとケースは両方100円だけどな!)

 一応古いスマホを持って行って使わせてみたのだが、手でタップするのに慣れてないのと、手がカサカサしている冬なのとの合わせ技でタップが反応しづらかったり(押すところのちょっと横を押していることが多い)。そこへガラスフィルムが厚めだったりしたら余計大変だろうと思ったので、高いフィルムにしておいたのだが、値段を知っていたら私が1200円ぐらいのを買って貼った、かなあ。はあ、高かった!

 念のため100均で導電繊維のタッチペンを買って渡しておいた。
 二人に同じ機種を色違いで買った。母に、なんとかラインの使い方を教えている間に父はスマホにプリインストールされている「スマホの使い方」のチュートリアルソフトを立ち上げて、じーーーっとムービーを視聴し、ボタンの使い方を練習していた。性格が出るよね、これも。
 多分父はこの調子で少しずつ操作をマスターするだろう。フォトショップやエクセルやワードをそうやってじーーっと見て試すことで覚えて使えるようになった父らしいと思う。

 そして私も操作を母に見せて教えるわけだが、今回買ったケータイはアンドロイド。ずっとiPhoneを使っている私にもイマイチわからないところが多い。ちょっとした使い方が違うんだよね。母がほしいと言っている機能がデフォルトで入っているのか、ケータイのキャリアが入れているのかが不明だったり、字を入力する時に私はPCのキーと同じ配列のソフトウェアキーボードが出てくるようにしているのだけれど、今回買ったスマホにはフリック入力しか出てこなかったりして、私もちょっと困った。

 フリック入力って慣れたら早いらしいんだけど、私はローマ字入力の方が早いんだよねえ…。キーボードの設定を変えるのは「設定」からだろうけど、google入力というのは普通のキーボードじゃないのか?(あとでPCタイプと12ボタン、フリックの変更のやりかたはわかった)
 母にはフリック入力を教えておいた。

 2時半にケータイキャリアショップの横のレストランでご飯を食べ、実家に戻ってからwi-fiの設定をして、ラインと電話とメールと、アラームの設定(目覚まし時計として)を教えて、まずは問題なかろう、ということで、家に到着が8時前。
 手続きに2時間ぐらいはかかる予定だったけれど、まさか4時間半もかかるとはねえ…。とても疲れて頭痛がする。
  私は帰り道に軽く夕食。夫と息子も2人で出かけて外食してくれた。熱いお風呂につかって、頭痛薬を飲んだらちょっとましになった。一週間後ぐらいにまたいくので、それまでにやりたいけど方法がわからないことがあったら、言ってもらうことに。なんせラインがあるからね。
 
 初めて音声入力とか、グーグルアシスタントとかも試してみたが、思ったより聞き取り精度が上がっている感じがする。最後に試したのは多分、10年以上前で、あまり使い物にならなかったからなあ。技術の進歩はすごい。

 私も次はiPhoneは高いからアンドロイドに乗り換えるかもしれないので、ちょっと家で古いのを見て研究しよう。

ガラケーを使う親

私の両親は、いまだにガラケーユーザー。父はメールを送っても滅多に返してよこさない。母はガラケーを持ったのこそ2000年より前と早かったが、ずっと同じようなケータイを使っていて、ケータイの種類が減ったのを嘆いていた。

 ただし、2人ともパソコンは使える。年賀状やカード、書類を作るとか、ブラウズぐらいならなんとかなるというわけだ。

母は、「今どきガラケーなのは格好が悪い」と愚痴っていた。
 じゃあ、ガラケーやめて、スマホにするかい?と私が聞くと、「とんでもない、あんなわけのわからないもの、使いたくない」とこう来る。
 まあ、そう言われてまで無理強いすることはない。3G停波まであと2年ぐらいあるし、そうなったとしてもガラケー需要がなくなるわけではない。今でも「がらほー」と言われる中身がスマホで操作方法がガラケーそっくりに仕立ててあるものだってあるのだから、いざとなりゃ、あれでいいだろうと私は思っていた。

 姉から連絡が来て、何だろうと思ったら、「母さん、スマホにしたいみたいよ?悪いけど付き添ってやってくれる?」という話。ああ、またこのパターンか…。
 姉はかなりの遠距離に住んでいる。そりゃ国内なのだからたどりつけないことはないが、年末年始とかゴールデンウィークとかに来るか来ないかぐらいの距離。そして姉が滅多に来ないのをわかっているからこそ、姉にはやってほしいことを言う。つまりやってもらえないのを承知の上でだ。

 私は隣の県の真ん中あたりに住んでいるので、電車を乗り継げば2時間ぐらいでたどり着けないこともない距離……ということはその気になれば朝一番から行って、大抵のことは日帰りで済ませて夕方に帰れる。なのに、私が提案すると「いや、そんなのいいよ、時間取るの悪いし」とか遠慮した風を見せるのだ。本当に遠慮して「やらなくてもいいや」と思っているのなら遠慮というものは意味があるが、そうでないなら日本人の美学として、一度目は遠慮するにしろ二度目に聞いたときに「じゃあ、やっぱりお願い」と言えないのはなぜだ。

 これを「外堀から埋めてうまいことやった」と思っているのかねえ。私はこの頼まれ方がとても嫌いだ。私が気付かないようなことならしょうがないけれども、私が今までにケータイがもう流行っていないというグチを聞くたびに提案してきたことなのだ。素直に「そうしようかなあ」と言って実行に移せばいいだけなのに。
 私が無理矢理やったみたいに見せなきゃだめってことなのか、それとも「やらせていただきます」といかなきゃだめなのか、なんかそういう雰囲気。そういう「察してちょうだい」みたいなの、本当に苦手なのだ。
やってほしいなら、私がやろうか?と提案した時に「いいの?ありがとう!」と言ってくれればどれだけ気分がいいことか。
 プライドがあって私の提案を受け入れられないというなら、やろうか、と聞いたときに「ううん、いい、自分でやる」と断ってくれたらそれでいいのに。

 高いとか、やったことがないとか、わからないとか、ぐちぐち文句を言い続ける母。
 文句を言うなら手続きは一緒にやるからチャレンジ。チャレンジがイヤなら文句を言うのはやめようね、と迫ることになった。

 使おうかな、と思っているのよ、でも、でも!とうるさいので、じゃあもう、今機種変更しよう、明後日にまた準備してくるから。
……と話をぶった切って帰った。やれやれくたびれた。

 そんなわけで私は自分の家のそばで親が契約しているケータイキャリアの営業所を探して、「大体こんな感じのプランを取っているようだけれど、こういう人がガラケーからケータイに変更したらどういう感じになるでしょう?」と話を聞きにいった。
 実は私の住んでいる街にはこのケータイ会社のお店が自転車で行ける範囲だけでも3、4軒ある。そんなわけでいうほど混んでいないし、他のキャリアもそのあたりにいっぱいあるので競合店が多く、接客が悪いとあっという間にお客が他所へ流れるので応対も丁寧。話だけを聞きに来たので、という私にも素晴らしい対応をしてくれて、私はスマホのカタログをいくつかと印刷した「大体こんなプラン」という見積もり書を何種類かもらうことが出来たのだった。

 これを持って、明日もう行く。おせんべいの味が食べなきゃわからないのと同じで、スマホだって使ってみなければ絶対わからない。それを「食べたいんだけど、口に入れるのは嫌なの」とずっと愚痴を聞かされる方の身にもなってみろってんだ。
 
 父は母を見ていてちょっと思うところはあるらしく、「もうやっちまおうか!」と推進する態度だったので、父のためにがんばっておこう。これがね、一番いやなパターンは「やっぱりスマホなんか使えない、それもこれもみんなお前のせい」みたいになること。
 マシなパターンは「やってみたらそれなりに出来たから、結果オーライ」。

 父は多分、じっくりと使い方を研究すると思う。マニュアルなんかを見てじわじわ行く人なんだよね、昔っから。
 つまり父は「説明書を読むタイプ」だ。

明日はがんばろう。

就職氷河期のあと

就職氷河期で、あんまりいい就職が出来ず、派遣などの非正規労働につき、そのまま転職を繰り返したり、派遣のままだったりして労働環境が悪いとか、低賃金だとか……という感じになっている世代がある。

 その人たちのことが新聞記事になったり、ニュースになったりするたびに、ちょっと「うっ」となる。
私もロスジェネ世代だからだ。実のところ、男性にまでその問題が波及する前に、女性の氷河期は始まっていた感じもする。バブルは終わっていたし、正直何の特技もない状態で「なんとなく」就職活動をした私はかなり就職活動に苦労した。

 ちょっとした資格ぐらいならあったが、かなりたくさんの人が取るようなものだったので差別化がはかれるほどでもなく、容姿端麗でもなく、成績はまあ、悪くはなかったが大学院だとか、そういう話が出るほどでもなく。資料請求しても送ってこないところがあるぐらいの短大で、当時は「寿退社」と言われる結婚したら退社するんでしょう程度の、使い捨てというよりは「男性社員の嫁候補プール」ぐらいの扱いで、愛嬌もなく化粧っ気もなくでは当然のごとく不採用連発だった。

 正直、あんまりにも不採用になるのでなんだかもうイヤになってしまったのもある。3次面接、4次面接、重役面接……。そのあたりまでいってから落っこちると余計メンタルに来るというか、もう何が原因なのかわかるわけもなく、ただただ、不採用。
 内定をくれたのは中小企業ばかりで、もうそれでいいや……と就職を決めてから、卒業時に他の人の華々しい就職先リストをみて、「あ、しまった、やっぱりもうちょっと粘っとくべきだったか?」と思ったっけ。

 数年勤めて、年収250万円ぐらいかなあ。280万ぐらいあったのか、繁忙期には残業ありで、サービス残業になることも年間数回。隔週週休2日で、いかにも補助業務の事務という感じの仕事だったけれど、一人暮らしを維持して、趣味を楽しみ、それなりに暮らしていた。貧乏だったか、と言われると「YES」としか言いようがない生活ではあったが、たまの旅行や、趣味の通信講座もやっていたことを思えば、「とても困るほど」ではなかったと言えよう。

 あのまま仕事をまじめにやって、一人で暮らしていたら……。
 多分給料は上がらなかったと思う。割と人がやめることが多かったのはまあ、中小企業あるあるだし、倒産合併リストラもあったかもしれない。その時、「間違いなく会社に残してもらえるほど」腕利きだったかと言われると全然だ。
 
 今ニュースで特集されるような「ロスジェネ」「就職氷河期」などの40代一人暮らしからの貧困問題などをみると、「他人事じゃない」気がする。
 結婚した人が、「妻と子供」を養えるぐらい稼いでくれる人だったから良かったものの、結婚しなかったらかなりの率で貧困問題に直面しただろう。私の給料は高くなかったし、私の能力も言いたくはないが低かった。つまり「ごく当たり前の事務職」として勤めるには問題がなかったが、社内でも専門の資格がいるような業務にはつけなかった。

 当時の私にとってそういう問題に直面するのを避けるために結婚したともいえる。結婚後も仕事を続けたいのならそうしてもいいよ、とは言われたが、私は仕事がとーーーってもやめたかったのだ。何の理由もなく女子高生のいじめみたいなことをしてくる人がいたし、やりがいがあるというよりは「数字が読めれば誰でもできるかもしれない」という類の仕事だったから、結婚して仕事を辞めることが出来るのならラッキー、としか思わなかった。

 今なら寿退社を進めるのは違法、ぐらいのいきおいだから、さすがにそういうのは減っているだろうけれども、当時としては「織り込み済み」で、独身女性で残るほうが「売れ残りでしょうがなく」みたいな陰口をたたかれたものだ。今考えたら、お仕事がかなり出来る人…だったのはまあ、年季があったからというのもあるだろうけれども、ずいぶんな言われようだった。
 
 近隣の小学校でも、うんと年が上の先生と、かなり若い20代の先生が多くて、30代、40代の先生が少ない。つまり就職氷河期とか、ロスジェネの人たちの時に採用を絞ったからそうなっているわけで。ちょうど中間管理職にあたる40代の人が少ないと会社で言われている、と友達も言っていた。そりゃそうだろうよ…。つまり20年前に採用しなかったのなら今いなくて当然。

 なあにを今更…と思う。そのあたりの年代の成婚率とか、子どもが生まれる数とかも減っていると新聞の特集記事にあったけど、そりゃねえ。子どもを育てるのに結構な金額がかかることを思えば、非正規労働で子持ちとか、考えただけでも厳しそうだと思われても無理ないだろう。

 その世代限定で公務員募集をしたという話も読んだけれど、ほんと……。そういう道はあってもいいと思う。特に短期間のトレーニングで何とかなる仕事というのは、案外ある。向き不向きはともかく、給料がほしい、生活には必要。そう固く決心して1年ぐらいかけて習熟度をあげれば、何とかやっていける、そういう仕事。

 私は…。もし結婚しなかったらちゃんとあのまま仕事をし続けられただろうか。
 そういう世代の人たちに職がないのは自己責任だから、というような意見を読むとき、いつもその疑問がわく。

 なあんとなくだけれど、無理だったような気がするんだよなあ。
 資格でも取っただろうか。それとも家賃タダを目指して実家に帰って派遣とか?

 私はそういう問題に直面する前に逃げたんだよね、結婚という手段を使って。
 戦っている同期を見捨てて逃げたような、そんな気分になることがある。

 逃げられてよかったのか、それとも自分で立ち向かっていない分、経験が積めず弱いままで人間的にいろいろなことが足りないというべきか。

 男性だったら、きっともっと大変だったのか…なんて思うと、女性は優遇されていると罵詈讒謗に及ぶ人がいるのもなんとなくわかる。引退する年代の人の給料って高いのに、その分の給料を払わなくてよくなった分って、どのあたりに消えてるんだろうね?
 今は、誰がいっぱいお金を持っているんだろう。社会主義をやれとは言わないけれども、薄く全体に広げるようにしてくれてもいいのになあ。

 ……なんてこんなことを書いたのは、整理整頓の最中に昔の年金手帳が出てきたから。
 結局、私は新卒の時就職して寿退社、再就職なしになってしまった。この手帳に書いてある日付の頃は、まだまだ働く機会はあるだろうと思っていたなあ。

 結婚せず働いていたら。結婚しても共働きだったら。10年前に再就職をしていたら。
 全部「たら」で、本当にはならなかったけど、そうなったら、どうしてたかなあ。

 この間、一番下のお子さんが小学校に入ったのを機に、専門技能があるので再就職したママ友が言っていた。
 「家にずっといると、働きたいなあ、って思うけれど、働きに行くと、専業主婦っていいわあって思うの!ないものねだりなんだよね、結局」って。

 案外、そういうものなのかもしれない。

ローンの謎を解く

このブログとリンクをしてもらっているさとちんさんの「202日記」で、【娘さんが家を買う予定がある話】があった。
 住宅ローンを組むにあたって、「頭金をいれないほうがお得になるかもしれない」という話があって、頭金を当然のようにいれて、ローンを組んだ世代のさとちんさんは、そんな話、あるの?と思ったという記述に、私も、そんな話、確かになさそう、と思ったので、ちょっと調べて今日のブログを書くことにした。書きながら調べて、考える回。

 ローンというのは、名前はともかく「長期間にわたる借金」。
 利子なしで貸してくれるとか、金利が「マイナス」の場合とかを除いて、利子は絶対払うことになるのが、現金で即金払いとの差なんだよね。お金を借りてくれたら銀行に返してもらう時、額面よりも減りますよ……ということになっていないことを考えると、ローンの金利は何パーセントかはあって、それを借りたら、その分多く返さなくてはならない。銀行はお金が返ってこないリスクも考えなくてはいけないから、金利ゼロでは貸してくれない。

 どんな仕組みで「頭金なしで借りてもお得」になるのか考えると、ここでいきなり「ないわー」となるのだが、不動産屋さんは、売るのが仕事だから、そこは「いい感じに演出する」ということも考えると、まず単純化したモデルで考えるとこうなる。
 
車を買うことにする。

1:チープ1号、100万円。
2:リーズナブル2号、300万円。
3:デラックス3号、500万円。

こういうのがあったとして、今お財布に100万円ある。チープ1号、即金で購入。支払金額は100万円。
リーズナブル2号をローン5年で頭金なしで金利2%で毎月払いにした場合は、支払金額は315万円ぐらい。
デラックス3号を同じ条件で5年ローンにすると支払総額が526万、10年だと552万。

で、ここで10年後まで行ってからの話をすると、チープ1号はもう、数万円の価値しかないと言われる。ディーラーで引き取ってくれはするものの、10万円。
 リーズナブル2号は、おや、意外と人気だね、50万円で引き取ってもらえた。
 デラックス3号は、これはほしい人が多かった、200万円で買い取りできますよ!さすが!

……となったときに
チープ1号:最後に残るのが10万円
リーズナブル2号:最後に残るのが50万円
デラックス3号:最後に残るのが200万円
――と計算して、ほーら、デラックス3号が一番お得!と、こういうことも、不動産屋さん的には「あり」らしい。
加えて、「ゴージャスな生活をする価値」もあるということらしい。チープ1号は、「お好みですけど、そんな車に乗るぐらいなら、レンタカーでもいいんですよねえ」なんて言われちゃって。

 払った利息の金額を考えると、チープ1号は「ゼロ」だし、デラックス3号は「52万円」も持っていかれるのに、それで本当に得といえるのか?
なんか、もやもやする。残った額が勝負ってことなんだろうなあ。(パターンA)。

 もういっこは、税金の問題。特に堅牢な作りにしました!というマンションだったりすると、あとで家が壊れましたー!住むところがなくなりましたから―!という人が減るということで、将来税金を頼る人が減るであろうという予想のもと、税金を優遇してくれる仕組みがある。それと、ローンがある人の住民税とか、所得税を軽くしてくれる措置もある。

 税金の割引額の計算は、金額の大きさと、借りている長さで計算されるので、「たくさん」「長く」借りている方がたくさん割引になる。税金を払わなくていい金額が増えるわけだね。
 税金の割引が効いている期間は、住み始める時期にもよるけれども、10年から13年らしい。
 低金利のローンを同じ期間で終わるように払えば(つまりローン期間は10年から13年の間)、利率と税金割引分の金額にもよるけど、「得になる」人もあるってことだ。(パターンB)

 とはいえ、これは「税金の額」によるのでは?給料がどのぐらい高いかで税金の額というのは決まっていて、たとえば年収200万円の人は、税金は大体13万円ぐらい。でも、年収2000万円だったら、500万円以上税金にもっていかれる。
 年収が高くて、税金が高いと、一部税金軽減でも結構な額になるってことで。高給取りなほど、使える制度ということなんだろうなあ。


 ついで、多分これが結構住宅を買うことにしないと全く知らなくてもすんでしまうことだけれど、給付金とか、次世代も住むことを想定したポイント制度とかで補助金が入ってくることも計算に入れる。(パターンC)

つまり、パターンA、B、Cの合わせ技によって、銀行の取り分である利子「ぐらいは」カバー出来ることもあります、というのが、頭金なしローンで得をする仕組みなんだろうな、ということは調べるとなんとなく見当がついた。貯金は定期預金とか、金融商品にしておいて、ちょっとでも利子を生み出させることで、払いだして頭金にするよりお得、とかそういうのもあると思う。

 やれやれ、ここでやっと、さとちんさんがコメント欄で
>>住宅購入時の頭金については、多い方がいいと思いがちなんだけど、
>>実はそうとは限らなくて、現在の低金利と住宅ローン減税を活用すれば
>> 頭金を少なく、住宅ローンを多くした方がお得になる場合があるらしいです。

……と書いていらっしゃったのが、そういうことなのかー。ということがわかった。

大体この条件を満たすとすれば、
A:資産価値が落ちづらい物件
B:収入が高いor高くなる見込みがあるので税金が減る分が多め
C:うまく条件があう補助金、給付金がある
……というのが必要ってことだね。

Cは今調べたらわかることだし、正確な話が不動産屋さんのほうで調べられるから問題なし。ただし中古物件だと取れる制度が少なかったと思う(10年ぐらい前にうちが買ったときにはそうだった)。
Bは、公務員とかだと話は簡単で、全額わかると聞いたことがある。友達は公務員でローンを組むときにこの計算をやって、退職金の最後の桁までわかっていたらしく、ぎりぎりいっぱいローンを組んだといっていた。普通にお勤めの人でも、「大体の計算」はわかるんだろうなあ。
ただ、大問題なのはA。
 私が住んでいる町の場合、マンションは大きく分けて3種類。例をあげよう。
 例1)イノシシが出たと噂のある山の上のマンションは、「子育てに最適、自然豊かな緑の町」みたいな感じに売られていた。値段は低かったが、駅には遠く、車必須の立地。内装は豪華で広かったので、確かにいい感じのマンションだった。
 例2)街中のイオンみたいなショッピングモールに近い当たりのマンションは、内装もそこそこ、大きさもそこそこで、値段も自然豊かなところよりは高いが、駅近より安く、小学校中学校、幼稚園などに近いのを強調。駅まで徒歩圏。
 例3)駅まで直通通路がついて、徒歩2分のマンションは「ほぼ駅」ぐらいのノリで、かなり強気のお値段。造りは豪華だという噂だったが、チラシを見ればすぐわかる狭さ。資産価値は「一番下がらない」とされていて、投資目的で買う人もあると言われていた。上層階は一億に乗るとか。

 この3種類のマンションの現在の価値はある程度値段が違うからわかるが、これが20年後、どのぐらいの価値が残っているかというのはとても分かりにくい。予想が難しすぎるんだよね。

 それにどこまでお得かなんて、割と絵にかいた餅のような気もする。大体ね、資産価値がいきてくるのって、「お金を借りる時」か、「売る時」なんだよね。つまり「高額のお金が突然必要になるようなことがある時」か、「住み替える時」か、「ローンが払えなくなる時」か、「死ぬ時」。
 よっぽどのことがない限り、ずっと住むのなら、資産価値がいくらであろうと、あんまり気にしてもしょうがない感じ。

お得に不動産買うって、難しいんだなあ。

 昔は、不動産をローンで買い、頭金を払って返していくのが当たり前だったのがなぜかというと、お金の価値が下がって、土地の値段がガンガン上がる時代だったので、最終評価額が払った額よりも高くなるからだったのだよね。ローン終わってから、売り払えば黒字。頭金をいれて、利子分を減らせばさらに黒字額アップ。上のパターンAの最終額が高くなるのが特徴。「持っていて損はしない」のが不動産という時代。

 令和の今はといえば、人口がこれから減っていき、宅地の必要性が下がって、土地の値段が上がらないどころか、下がるのでは、という予測もされて、都会の中心部はともかくも、そこまでの資産価値が見込めないかもしれないので、持ち家か、賃貸かという議論の決着がつかなくなってきている。売れもしない土地と、価値のない古い家と、高くつく修理代を払うぐらいなら、修理代はかからないし、いつでも便利なところへ住み替えて年をとってもやっていける賃貸のほうが……という選択もありだということになっているわけで。

 ローンを支払っている世代である私たち40代、友達を見回してみるといろいろだ。
 給料がどのぐらい来るかが一文残らずわかっていた公務員の友達は、ローンがギリギリすぎて財布の中身が月末2桁になってコーヒーを買えなかったことがあるそうだし、飲み会に誘っても来ない。孫が予想外に早く出来て、子供の世帯に援助を出すのに仕事を掛け持ちにして、「世間の休日は24時間戦えますか状態だ」と言っている友達もいる。
 専業主婦をしていると思っていたら、「思ったより学費がかかったから」とパートに出ることにした友達もある。
かと思えば、海外旅行の写真がしょっちゅうインスタグラムに上がる友達もいるし、一度買ったけど、不便だったからとマンション売って住み替えた人もいた。高そうな車の部品をかなりの頻度で付け替えている友達もいる。
 何にお金を使うか。ローンは少額を長く払うのか、繰り上げてさっさと返すのか。そういうライフスタイルは人それぞれだなあ、と思う。

 でも、その人それぞれを不動産屋さんは全然考えてくれない。
 子どもにお金がかからない幼稚園と公立小学校のうちにローンが終わるならあんまり問題はないだろうが、中学校が私立だったら年間の学費は、60万円から80万円ぐらいは必要で、高校、大学までの学費が必要として。ローンと、学費と、子供が複数ならどのぐらいに重なってくるのかとか、計算がややこしい。

 不動産屋さんは「今売れて、手数料が入ったらOK」であって、例えばローンが払えなかったとか、行きたい学校に費用の問題で行けなかったとか、生活が微妙に苦しいとか、節約が大変だとか……というようなことはあんまり考えてくれない。
 なんせ、不動産が高ければ高いほど、手数料も上がるんだもの、そりゃあ、高いほうが売りたいよね。
だから、「みかけだけ」お得でも、おすすめされちゃうわけで。

 やっぱり「頭金をいれなくてもお得になる時がある」というのは、計算上ありでも、生活していくうえでの感覚で「そう感じられるか」というのとは別だよなあ……と思う。貯金はなるべくなら崩したくないものだし、借金生活は長いより短いほうがいいような気がするし、毎月の家計はギリギリじゃないほうがいいだろうし。

「ファイナンシャルプランナー」とかに見積もりを頼むとわかるんだろうけど。時々、不動産の見学会に、ファイナンシャルプランナーの無料相談会とかが出来るという広告も見るけど、「今は家を買わないほうがいいです」なんて絶対言わないよねえ、だって不動産会社に雇われて来るんだもの。
 「正しく見える」診断結果は出してくれるだろうし、納得がいくように説明もしてくれると思う。でも……。
 そういう「住宅会社の息がかかっていない」ファイナンシャルプランナーがいればいいのにな、と思う。

 結局は「気に入った場所にある」「それなりに気に入った家に」住むのが一番。
 家の間取りや狭さは「慣れる」ので、譲れない点を最低限で、理想を狙わない。毎月返す金額は、無理の出ない程度で、「ギリギリ限度額いっぱい」は、やめたほうがいい。そう言ってくれた友達のアドバイスは今でも、いいアドバイスだったなあと思う。

 そのアドバイスに足すとしたならば、建っている場所だけは変えられないので注意、ということだろうか。幼稚園がちょっと遠くて、自転車で送り迎えだったけれども、のど元過ぎればなんとかだし、小学校は近かったが、小学校6年生を過ぎた時点でメリットはないも同然。それより長期間問題になるのは、やっぱりスーパーとの距離と、通勤する時の駅の距離だと思う。

 息子が幼稚園の時に買ったマンションだけれども、あの時は子供が中学生になる時に私立にいれたい=電車通学とか全然考えていなかった。中高で小学校と同じ長さがあるということも、そのあと大学に入れるとしたら10年間通学があるということも、全然念頭になかった。

 駅に近いマンションは騒音も大きいので当時はあんまりチョイスに入っていなかったんだけど……でも今、もうちょっと近かったらよかったのにな!と思っている。

 マンションを買うという話をしたとき、周りのママ友さんが「三回ぐらい買えれば、理想の家が買えそうなんだけどねえ」と言われたものだけれど、本当にそうだなあと思う。

 いい家が見つかりますように。男女一人ずつのお子さんに、もうひとり赤ちゃんが来たら、きっともっと楽しくなることだろう。直接会ったことは一度もないのだけれども、遠い、遠い親戚のおばちゃんのように、こっそりと見守らせてもらっているような、そんな気分でつい、新しい家を買うのなら……なんてことを一緒に考えたくなった日記でした。

 
 

夫婦別姓

最近出かけるようになったグループで、数人一度に知り合うことになって、名前を聞いた。

名前を覚えるのが苦手だから、何度か聞くかもしれない、と前置きして聞いた。名簿も配られていたので、顔と名簿を照らし合わせる。
「山田花子さん(仮名)」は、山田さんと呼ばないで、「花子さん」と呼んでほしいという指定があった。

 ??
そりゃ、いいですけど。でも別に読みにくい名前でもなきゃ、長い名前でもない。
山田さんがいうには、「山田という名前はねえ…。結婚した人の名前で、私のじゃない気がするのよ」と。

 ええーーーー。お子さんもう、20代だとおっしゃってたのに。
 
 多分だけど、結婚20年越えているはずの人なのに、まだ苗字に違和感があるのかー。ちょっとびっくりした。
 私も結婚20年以上経つけれど、最初の半年から1年ぐらいは違和感があったかもぐらいで、今なんか旧姓で呼ばれても反応できるか微妙ぐらいのノリだ。ぼんやりしていたら絶対聞き逃す。昔住んでいた場所とか、同窓会か、結婚前の友達と会うならそれなりに心構えはあるだろうけど、正直今は旧姓のほうが違和感があるぐらいだ。

 なるほどねえ…夫婦別姓にしたい人はこういう感じなのか。
 
 そういやあ、幼稚園でも小学校でも、役職とか、最低限の事務的なお付き合いをしている時は苗字呼ばわりで、個人的に仲良くお茶だのランチだのをしに行くようになった時、ラインとかメールとかを旧姓で登録して、旧姓を呼んでくれ、という人が時々いた。私は旧姓で業績とかを積んでいないので全然平気だが、仕事をしてキャリアを積んできた人にとっては旧姓のアイデンティティというものは大切なんだろうな。

 どっちでも選べるようになるといいと思う。こんな面倒な説明しなくていいように。
夫婦別でも、慣れてしまえば平気だと思うし、そういう風になっている国も多いんだから。
 
 そういうことでいえば、この前免許証に旧姓をカッコつきで併記できるという話になったのは、よかったと思う。
 

孤独死にならないように

人生80年よりずっと長くなっているかもしれない昨今、ひとりぐらしで誰にも気づかれず、死んでいく人が多くなっているらしい。

 生まれた場所から離れないのが当然だった時代はともかく、結婚しない人は親と一緒に住んでいるのが当たり前ではなくなった。今、一人暮らしも多いだろうし、親と折り合いが悪かったり、離婚した親と別居して居所がわからなくなっているという話のある人も知り合いにぽつぽつあるぐらいだ、めずらしくはない。

 友達が多くてしょっちゅう行き来があれば、気づいてもらえるのかもしれないが、今の時点で私の友達との行き来の少なさはかなりのものだ。SNSで一応つながっていないこともないが、私はあまり投稿をしない。あんまりニュースがある生活をしていないし、出かけた先のケーキの写真を見たい人もそうそういるとも思えない。

 私が死んだら、多分「そういやあ、最近連絡していなかったなあ」なんてことを思ってくれるひとがちょっとはいたとしても、「また多分ヒマになったら連絡がくるよね」とか思われて、軽くスルーされそうな気がする。ラインは既読にならなくても、「見てないんだな」ぐらいでそのままになってしまいそうだ。

 死んでしまって、持ち物も、この体もすべてこの世界に置いて旅立ってしまう(詩的に表現してみた)としてもその後のことについては、まず干渉できないので、死後の世界があるとしても、自分としては打つ手もなく、死後の世界がないとしたら余計に何もできずそこまでだろうから、そういうことは私は心配していない。

 問題は残してしまった体の残骸というか、腐ったり、虫に食われたりとか、そうなったあと、白骨死体になるまでの経過で、体を置いて行った場所に与えるダメージの問題。腐敗した食べ物を見たことはもちろんあるが、私の質量のことを考えるとかなりの量になると思う。コップ1杯なら腐っていてもたかが知れているだろうが、そんなかわいい量じゃないからねえ。

 発見してもらうには、か……。少なくとも一カ月ぐらいまで?
 やっぱり、新聞を取るのがいいかなあ。新聞は取りに行かないとポストにたまっていく。ちなみにうっかり日曜日取りに行くのを忘れた後、月曜日の買い物帰りにポストをみたら、「ものすごくいっぱい」だった。あんまりあふれんばかりだったら、新聞屋さんがどこかに連絡してくれないかなあ。マンションの管理人さんとかにさ。一応住所と名前と電話番号ぐらいの個人情報は新聞屋さんに教えてあるもんね。

 つまり新聞が定期購読できるぐらいの経済状況にあることが大事。新聞販売店でそういうサービスやったらいいのにね。
それほど高くはない値段で、郵便受けがいっぱいになったところで、登録してある連絡先に連絡を入れてくれるとか、そういうサービス。電話を決まったところに、または警察か、建物の管理人に入れてくれる以外のサービスはなくてもいいから、1年1500円ぐらいで。

 これから一人暮らしのお年寄りが増えるという予測もあるようだし、10年、20年経つうちにそういうサービスが出来るといいな。

民間英語試験で英語がペラペラに……

結局導入が見送られた、英語入試への民間試験導入。うちの子も大学に入る時には受けるかもしれないので、割と「他人事」ではなくて、ニュースは追っていたのだが、大体ものすごくこう、無理があるなあ、と思う。

たとえば、英検の1級のような試験を受けたとしよう。私はたとえば英検1級の試験の一次試験問題をこの間やってみたが、合格点数は出せる。かといって、今アメリカにいって立て板に水とばかりにしゃべれるかといえばそうでもない。

 アメリカに何年も滞在していたし、大学もあっちで卒業した。卒業直後ならおしゃべりなら問題なかったが、いま日本に戻って来てもう10年以上経つので、正直いうと片言みたいな英会話になりやすいし、しばらく時間をかけてちょっともどってきたといっても専門的なことを話すには足りない。もちろん、道案内であるとか買い物ぐらいなら「英語しか話せない人に意味が分かる程度」には話せるだろうが、そういうことをやったあとで、ああ、言い方はこっちのほうがよかったか!とかこういえばよかったなあ…とか後悔することが多い。

 つまり「流暢には話せなくなって」いるわけだ。これはなぜかというと、つまり英会話の機会が少ないことによる。私がもっと流暢に話せるようにしようと思ったら英語圏の他の国へ遊びに行き、しばらく暮らして話す機会をたくさん持つと多分、元の水準まで戻ると思う。

 英語を中高で6年勉強してもペラペラ話せるようにならないのが日本人英語の大問題であるから、もっとスピーキングに力をいれるようにすれば、この問題は解決、とこういきたいところだが、そういう風になっているかというと、実はそうじゃないと思う。

 まずこれは、反対側から考えるとすぐわかる。英語圏の国、たとえばアメリカ。6歳の子をひとり、つれてきて英語で話しかける。きっと彼女はペラペラに英語が話せるはずだ。6年英語を勉強してきたのだから当然?でも、彼女は大学の先生が読むような論文は全く読めないだろうし、病気やケガで病院に行った時に自分がどんな状態にあるかということを専門用語で説明されてもきっと全く理解が出来ない。

 6歳の子でも5歳の子でも「ぺらぺら」だが、それは6歳なり、5歳なりのことでしかない。
 日本でも「スーパーキッズ」みたいに宣伝されている子供のころから英語がペラペラのお子さんたちも同様だ。年齢相応。

 大学を出て、英語の論文を読むようになった日本人大学院生たちは、多分読んで、何が書いてあるかを理解する力がある。ただ、単語は全部知ってはいても、話す訓練が出来ていないので詰まるだけ。話す言葉と書く言葉がずれているのは日本語も英語も同じで、慣れていないこともあるし、頭の中で文章を書かないで組み立てる速さが足りないというのもあって、考える速度と話す速度が折り合わない。

 なので口ごもることになって、ペラペラにはならないというわけだ。もちろん簡単なこと……「愛してるよ」「私もよ」「君は素敵だ」とか、「ご飯食べようか」「とてもおいしいね」「元気だった?」こういうやり取りをしている分には問題がないことが多いので、さほど英語を話せない人でも、英語圏の人とお付き合いするのは難しくない。ただ、「価値観があんまり違いすぎると話していて疲れるんだ、お金がすべてとは思わないがもうちょっと節約を考えよう」とか、「あなたのこういうところは美点だと思うわ、でもこういうところは私の気に障るということを、どれだけあなたは察しているわけ?」とかいうことを話そうと思うと一気に難しくなる。
 そういう時に使う定型文のスタイルが頭に入っていないのが原因。

 会話は練習しないとうまくならない。でも、会話集に上のような長い会話が出てくるまでに何年かかる?それに加えて講演会や、演説に使われるような表現も練習できるぐらいとなると、実際に練習する機会はまずないといっていい。「東京駅はどこですか?」「ここをまっすぐいって、二つ目の角を右に曲がるとあります」とかやっていても、実際の会話に役立たないことはなんとなくわかるだろう。

 これが、例えばインド、マレーシア、シンガポールあたりだと英語が公用語で、大学に行くと教科書が英語圏の物を利用して教えられていたりとかするので、英語で話をする機会が増えることで流暢さが上がるということになっている。大学教育が日本語である時点ですでに英語が流暢になる条件が一つ落ちているということになる。

 でもね……。自分たちの言語で高等教育が可能だというのは、発展途上の国の人たちにとっては「やりたいけど出来ない」ことで。日本では日本語で大学院まで全部いけるというのは「すばらしいこと」なんだってこと。植民地になった歴史が長いと、初等教育から英語しかない時代もあったりする国も多い。家で現地語、学校で英語を強制された国の出身の人に話を聞いた。1970年代後半の生まれだったその人によると、小学校の先生がフランス語で授業をしていたのに、ある日いきなり英語に全とっかえになったことがあるとか。子どもたちの混乱と学力低下が目に見えるようだった。

 そういう国に住むと何が起きるか。英語圏からビジネスがやってきてお金を儲けている人がいて、そこに採用されるのが一番給料が高くなる。となると英語必須。みんな生活がかかっているから死ぬ気で英語を勉強して、話せるようにならないと不採用、またはほかの人に蹴落とされる。ビジネスチャンスは外国にあるというので大勢が出ていく。そういう人たちが稼げる人たちで、現地語しか出来ないと給料が低い。

 みんないい生活をしたい、子どもにもいい生活をさせたい。つまり英語を子供のころからやって、チャンスをねらうということになって、そこの国の人たちは英語ペラペラだ。

 多分、日本も同じように「外国に行かないと稼げないもんねえ」ってなったら、同じようになるのかもしれないけれどね。
 それは頭脳流出、人材流出するということでもある。
 一体、どんな人材が欲しくて英語力がほしいのだろう。

 大人になってから外国に行けば、苦労しながらでも覚えることになる。それで今までやって来て問題なかったし、リスニング力は上がっているし、元々読解力はある程度あった。結局「必要性があって使うまで」英会話がどっちにしろ上達しないことを思えば、「あなたはペンをもっていますか?いいえ、これはペンではありません、鉛筆です」なんて会話をやらせるよりは、単語を覚えて読めるだけは読める状態にしておくのでいいと思う。つまり現状維持。

 読めない、覚えていない単語は書けない聞こえない話せない。
 知っている単語なら、書けるし、聞こえやすいし、話せるようになる可能性は十分ある。

 文章を読み、単語を覚える時間をつぶして役にも立たないレベルの英会話に宛てるのはもったいない。大体日本人がペラペラになる時というのは、英語が公用語になる時だと思う。

 なので私としては受験生には気の毒だが、この「見送り」はいい話だったと思う。
 

ゆるゆる?受験の方針

 昨日のプレテストの記事を書いた後、ネットをブラウズしているといろいろな記事があった。たとえば有名な人でいえば、東大にお子さんを3人入れたという本を書いている人とか、自分は学歴が低いけれども娘さんは高学歴になって自分とは違うタイプの人生を、というので塾も使わず娘さんを結構いい私立中にいれたという「下剋上受験」の親御さんとか(この人は教育コンサルタントみたいなのになったらしい)、各種塾の講師や、教育評論家の記事まで入れたらもう、絶対全部信じたら矛盾が多くなりすぎてわけがわからなくなること請け合い。

 結局、無理のない範囲でなるべく個人に合わせて勉強させて、競争心や向上心がある子ならがんばらせて、親はサポートに回り、無理のない範囲の学校からチャレンジ校まで数校選んで受験、どこに行っても努力はしただけのことはあるから無駄にはならない、というあたりが落としどころになる感じ。

 まあね…かなり無理をさせて押し込んだのはいいものの学校をやめた人の話とか、男子が全員受験をする私立の小学校(その学校は中学から女子校)で、授業中に叫び出して自分の手を鉛筆で刺したり、隣の子に殴り掛かったとか、突然泣き出して動けなくなった子がいたとかという具体的な話を聞いたこともあるし(話を聞いた人のお子さんはその学校にいた)、難関校に是が非でも合格しろ!というのは相当子供にプレッシャーがかかるものなのだろう。
 もともと私立の小学校から中学校高校、と考えていると、落ちたら公立に行けばいいよねという選択肢はないものとして考えざるを得ないし、それも塾に何時間もいかせて、下手をすると特別な講座などを取り、ひと月10万円どころか、その特別コースの宿題をやるための家庭教師なども雇い、20万円越えという話もあったりするそうだ。

 1カ月20万円!いや、10万円でも相当だ。そこまでしてトップ校に押し込まなきゃいけないのかと私は思うが、だからこそうちは「中堅校受験」で、難関校ははっきりと「受けません」と公言してるわけだけど。1カ月に20万つぎ込んで、年間200万円以上かけて、それでまだ「入学前」ってところがなんとも厳しい。

 うちは中堅クラスなので正直あんまりお金はかかっていない方だと思う。それと「公立には行きたくないけど、どこかに受かればいい」ぐらいのんびりした受験だ。多分、志望校3つのうちどれかにはかかる。それがだめなら、近所には去年の入学実績が中学生は男女ともに定員割れです、という中学校の2次募集だってある。ちなみにそこの高校の偏差値は結構高く、大学の進学実績は悪くない。一応模試を見る限りではその学校の偏差値は「(-)」だが、つまりは「滑り止め」の学校で、後は落ちまくった子を拾ってくれるという評判だ。学校では手厚く指導してくれてアットホーム、高校から入ってきた偏差値の高いお子さんたちにもついていけるぐらいに実力はつくらしいから、悪い学校ではないと思う。

 もちろん、「御三家」とか、「超難関」とかには比べるべくもないが、あんまり「偏差値至上主義」みたいになってほしくないのも本音だし、うちの息子にそういう「バリバリ勉強しましょう」という学校は多分合わない。どちらかと言えばアットホームで少人数のほうが合いそうなんだよね……。

 公立の学校が嫌だから受験、ってずいぶん消極的な理由だと思うし、周りの受験組のお母さんたちを見ていると多分うちはのんびりしすぎている感じもするが、肝心の息子がコツコツ勉強してくれるタイプではないので得意科目で一発勝負ということになっている。
 もうちょっと年齢が上がってから、やりたきゃ勉強するだろうし、しないならしないなりでそういう人生を選ぶのも、もうしょうがないんじゃあないかなあ。というところまでは親もあきらめがついたということでもある。

 息子の算数のひらめき具合はすばらしいし、かなり難関校用の問題を解けるところはいいのだが、式を書かない算数と問題を読まない国語では、点数が上がりきらない。算数はミスが少なければ点数が取れるが、国語は運がよくないとダメな感じ。本人はオレは頭いいぞ、と思ってるし、受かる気満々だ。

 中学受験は親の腕次第というのは嘘だと思う。お金はある程度かかわってくる。これは確かに。息子のやっている受験用の算数は、小学校の授業とは全く別のもので、どちらかというとパズルとかクイズの方に近いのでは……という感じだし、親も解けないようなのが出るから、塾の解説書なしでは厳しい。
 でも、あとは受験するのは子どもである以上、出来不出来に波があったり、やる気にむらがあるのはもう、しょうがないね、と勧めるしかない。やっぱり受験する子ども次第だと思う。

 一番不出来で、やる気がダダ下がりの時にも受かる学校を1つは用意してやるしかないかね、ということで夫とは相談がまとまっている。塾ではもっと受けろ、もっと上を目指せ、とたきつけるらしいが、うちではそれに反対だ。親も子もそのぐらいのほうが楽だし、この年齢で無理はしなくていいだろう。

 とはいえ、こういう方針の親御さんはあんまり見ないので、ちょっとブログに書いてみた。
 

中受プレテスト

 受験期が迫ってくると、各学校「プレテスト」という名前のテストをやる。
 これは別に入試ではないのだが、行った人全員に受けさせてくれて、割と入試問題みたいなのが出るという話。

 不思議なテストで、誰もはっきりは言わないのだが、「受験をするのに有利」だということになっている。噂レベルの話ならあって、たとえば「ギリギリで不合格だったとき、プレテストを2回とも受けていれば何点か加算して合格にしてくれる」とか、統一日より後の日程の試験には、プレテストの点数と、一科目受験で合格させてくれるとか…学校によっては、はっきりと「統一日の試験の点数に加算」と書いてある学校もあるとかで、うちも、一応やっておこうか…という話になった。

プレテストの受験校は、息子が受ける志望校3つよりぐっと偏差値が低い。塾によっては偏差値が出ず、「(-)」と空欄になっていることもあるような学校だ。

 ただ、息子の場合は得意科目でも波がある。うまくいけば9割超えだが、下手すると6割、とかそういう感じになってしまう。今から数カ月でそれが解消するか…と言われると、あんまり期待できないというのが本音だ。

 というわけで、そのプレテスト、行ってきたんだけど、結果がね…。

 普通は、そこより偏差値が20以上も高い学校の過去問とかをやっているのだ、当然いい点数が取れると思うよね??

 正解率が国語6割は、頑張ったと思う。だがしかし、算数も6割。
 夫とがーん、大ショックー。

 本人は、テストの帰り道に聞いたら、「あんなの、簡単すぎー!」と言っていたのにだ。
 つまり…計算ミス多発、うっかりミス連発、それから単純に問題が読めていなくて解答形式を間違っているものが散見される。(模範解答と自分の答案を郵送してくれる)

 なんだか欠点を拡大したような感じになっていた。
 本人もびっくりの点数の悪さ。つまり、パッと見て簡単だったので、なめてかかって失敗したということのようだ。

 いくら簡単に見えても、こういうミスをすると点数が取れないこと、点数が取れなければ合格しないこと。こういう力の抜き方をするのはよくないこと…とまあ、普段は冷静な夫もショックを受けたらしく、息子はがっちり説教をくらっていた。

 普段は、自信たっぷりに俺は頭がいいぞ、と思っている息子もさすがにこれはまずいことは分かった模様だったので追い打ちはかけなかったけど、いい加減にしてくれよ、と私も思った。
 このプレテストを受けておくことで、もし他の学校がダメで、意気消沈してテストを受けるかもしれない時に、「楽々合格」を狙いたかったのにー。

 楽をさせたい、なるべく心理的に負担をかけたくないという親心は、なかなか通じないものなんだなあ…。根拠のない自信と、プライドの高さが、男子の特徴だと塾の先生はいうのだけれども…。どんな学校のテストでも、この時期のものは役に立つかもしれないからという謙虚さは、ないってことなんだろうね。

 この学校のプレテストは役に立ちそうな点数が取れなかった。まあ、落ちまくったら公立にいくのは本人だからね…と珍しく2本目のビールをあけながら夫がぽつっとこぼしていた。
 そのあたりの因果関係がいまいち、わかっていない気もする6年生だった。

相容れない。

電話をかけて文句をつけて、いろいろなことを中止とか廃止に追い込むのを「電凸」というらしい。「電話突撃」の略かな。
 愛知トリエンナーレの補助金廃止とかのニュースも記憶にまだ新しい。

 夫となんとなくお茶を飲みながら雑談した時、そういうのはよくないと思う、という話になった。
 全くの匿名で、いやがらせのような電話をかけ、それでいろいろなことをやめさせるのが「あたりまえ」になるのはよくないと。確かにそう思う。それはつまり、数を頼んで脅迫するようなものだし、そういう方法をとることを当たり前とするならば、言論の、表現の自由というものはどうなるのか、ということについては私も賛成だ。

 相手に嫌がらせをしたり、権力を使って圧力をかけて意見を言えないようにしてきた歴史というのが日本にはある。「官憲」なんていうものがいた時代にはそういう言論弾圧があったし、そういうことが起きないように法律を整えて権利を保証して、現在があるわけだ。

 で、彼がその時に、赤十字の献血ポスターが、そういう攻撃をされているという話を出してきた。それが「巨乳」だというのが理由らしい。

それがこのポスターらしい。
 実は、見たときに私は「うっ」と思った。こういうサイズの人間ってあんまりいない気がする。
 「これは私もいやだなあ。ここまで強調されてると。人間のサイズじゃないよね」
「グラビアアイドルにはこんなのもいるよ、最近の水着とかすごいし」
「まこが読んでる『アクセルワールド』の表紙なんかもっと露出度が高いよね?」

違う。なんか違う。
「『アクセルワールド』は本屋さんへ行って、買うものだよね?自分で買いたい人だけが見るなら別にいいんだ。もっと露出度が高くても、水着でもなんでも。でもこれが「ポスター」ってのが問題なんだと思う」

「だからといって、電話をかけて文句を言って、取り下げさせるのは問題だと思う。どこまでなら取り下げさせる?誰か一人でも嫌だと思ったら、そこでもう炎上させて電凸するのが当たり前というのが怖いんだよ」

わかる……わかるけど。
でもね、こういうポスターの地続きに、たとえばスポーツ新聞の官能小説の挿絵とかがあるのさ。
 満員電車で身動きできない時に、若い女の子の目の前でそういうのを至近距離で見せて反応をうかがい、にやにやするおじさんとか、いたんだよね。満員電車で痴漢とか。お酒に酔って触って来て「減るもんじゃなし」と次の日に「酔ってたから覚えていない」という人とか、自転車ですれ違いざまに胸触られるとか。そういう「性的なもの」として胸を見ている人たち、ああいう人につながっている気がする。

 「俺だって痴漢に遭ったことあるから、それがイヤなものだということはわかってるつもりだけど」
 って。聞いたら1回そういう目にあったことがあるそう。
でも、絶対わかってない。これはつまり、12歳ぐらいから、15年間ぐらい、そういう目に遭ったり、あった人の話を聞いたりしながら、「女の子がこんな夜遅くに歩いちゃダメ」と言われ、痴漢に遭っても魅力的だから触りたいと思われたんじゃん、気にすんな、などと言われたりし、夜は歩かないほうがいい危ない場所を念頭に置き、飲みに行っても帰り道のことを考えて警戒しながら飲み、飲み物に何かが混入されていないかということはある程度注意しておかなくてはならない、というような生活をしたら、わかってくることなのだと思う。

 つまり、自分と逆の性別の人はほとんど全員が自分より腕力があり、社会的地位の高い人につながっている確率が高く、会社では上司が多くて自分の訴えがとおらないことが多く、「女子供」の言うことなんて、扱いになりやすいこと、そして自分の性別が「コンテンツとして消費」される環境におかれていて、自分が望まなくても同意しなくても自分の体に勝手に触れて性的な楽しみに使う人がいるということを、そのポスターは想起させるということなんだよね。

 別に、男性がこういうものを楽しみたいというのを止めるつもりはない。もらって帰ってもいいだろうし、家に貼っていてもいいと思う。でも、誰にでも見えるところに貼ってあるのはなんかなあ……

 彼は法律の話をしている。
 私は感情の、気分の話をしている。

 そりゃもう、絶対かみ合わないのが当たり前だ。
 でも、もやもやする。

 この話は平行線だし、かみ合わないし、気分が悪くなるからやめようか、と議論を打ち切ってから私はまだ考えていた。
 このポスターの何が、こんなに気に障るのだろう。

 しょうがないから詳しく調べてみた。
 どうもこのキャラクター、一枚絵のイラストじゃないらしい。ちゃんとストーリーのあるマンガのキャラクターらしい。
 なるほど、この絵の人物が「ただ、胸の大きい女性」なだけじゃなくて、性格設定があって、ストーリーも知っていたら、ここまで気にならなかったかも。
 でもなあ。

彼の方にわかってもらうとしたら、どうだろう。彼はつまり当事者感がないんだよね。
 「別に男性の裸なポスターが掲示されていてもなんとも思わない」
とは彼の言だが、男性の露出度が高い写真というのはコンテンツとしては少数派。女性のほうがずっと多いわけで。
 おまけに女性が男性に力づくで、なんてなっても力でまけることは少ないだろうからなあ。容姿で評価される機会もずっと少ないし。

 男性より格段に力が強い第三の性があって、その人たちから「大きい」「小さい」と評価されたり、自分のいないところで面白半分にサイズが取りざたされランク付けされたり、じろじろ見られたりする経験をして、自分と同じ性別の人が力づくで凌辱されているうちにその加害者にベタぼれになるというようなコミックスが堂々とコンビニで売られているというような環境で思春期を過ごさないと、あんまりわからないんだろうなあ。

 おばちゃんという年になっても、習慣とか考え方が残るからね…。今はましになっているのかもしれない。コンビニで成人向け雑誌は最近売らないらしいし。このポスターは、クリアファイルとして配るだけならここまで炎上しなかったと思う。それと、もうちょっと胸のサイズが目立たなかったら、多分。後は知名度が低かったので胸のサイズだけが独り歩きした感じというか。

 今の10代、20代の人には「ああ、あのマンガのキャラか」ぐらいのノリなのかもしれないしと思う。私たちが中高生だったころというと、確かに、「カボチャワイン」のエルはそういう胸が大きい設定だったような……ここまでではなかったけど。きっと私と同世代のものでも、青年誌のキャラで私が知らないものにもこのぐらい胸が大きい子はいるのかもしれない。
 
 でもなー。ポスターなあ。それも赤十字の。これがヨドバシカメラの幟とか、書店の中にコミックスの宣伝で貼ってあるポスターだったら気にならなかった。多分赤十字でも建物の中か、献血車の中なら……まだいけたかも。駅とか、道端にあるのがダメな感じがする。

 私は電凸なんかしない。表現の自由は誰にもあると思う。でも街角のピンクチラシが違法だという話もあることを思えば、レーティングはもうちょっとなあ、とは思う。原作マンガはレーティングでいうとR15あたり?PG13?Y7ではないだろうしなあ。
 息子に読ませるとしたら…。私たちも読んで、解説したほうがいいだろうな。親になったら、いろいろと判断基準が10代20代とはちがってくるものだ。

 そう…そういう年齢のヒトよりも、その年齢を卒業しちゃった人のほうが多いんだから、こうなるんだよね。20歳だったら…うーむ。私が20歳の時にこれを見たら今よりもっとイヤだったかも。10代、20代の人向けのというなら、半分は女性だということも考えてほしいなあ。女性向けに男性のポスターとクリアファイルもあるとか?

 ともかくかみあわなかった。

もう時効の話だけれども。

私は子供のころ習い事をしていた。県下に支部が地区や市町村にあり、一年に2度全員集まる大会がある。「合同練習」というものもそのために何度か行われた。

 一週間に一度の普段の練習はみんなが歩いてだの、自転車だので通えて、合同練習は電車やバス。年齢は「一人で電車に乗れれば入れる」のが目安とされて、基本小学校3年生からだったが、「近所の子が一緒に連れて行ってくれる」とか、「上に兄弟がいる」とかだと1年生から受け入れ。募集は中学校3年生までで、高校3年生まで在籍出来た。

 小さいころから何年も通うと、他の支部でも知っている子、仲がいい子が出来てくる。同じ学年だとなおのこと。かなり遠い町の子と仲良くなって文通なんかしていたものだった。お互いの家は県庁所在地を挟んで反対側に20キロ同士とか、そういう距離感。
 あれは多分、私が中学校2年生だったときのこと。

 田舎の中学生の「お付き合い」というのは、「学校に一緒に来る」とか「学校から一緒に帰る」ぐらい。私が小学校の頃聞いた「恋のABC」は、Aが手をつなぐ、Bが腕を組む、Cがキスだったという状態で、それを信じている子がいたぐらいの時代。学校の性教育はかなりぼかされており、生理用品は「女の人のティッシュ?」ぐらいの知識しかないのが小学生男子(高学年)であり、中学生になっても結局、「C」までいくと子どもが出来るらしい、ということは伝わってきたが、それがキス……なわけないよね?ならどうなってるってこと?みたいな情報錯綜状態になっているのが奥手の子たち、という感じだった。
 一番「進んで」いるのは学校にいるヤンキーグループの子たちで、もう「はじめて」は済ませているのだという話も噂されていた。

 習い事の合同練習で仲良しの子たちとお弁当を食べていた時に、「どんな男の子がタイプか」などという話題になるのは流石に中学生。「やさしいひとがいい」「かっこいいひとがいい」と全然具体的な話が出ないタイプの子も多いが、「そんなの興味ない」とは絶対言えないのが女の子のグループ。
 たとえば「キスをするとしたらどんなシチュエーションがいいか」なんて、「ときめきトゥナイト」か、「星の瞳のシルエット」かみたいな、憧れしかない頃で。(注:両方「りぼん」に掲載されていた当時の人気少女コミック。健全レート)

 河原で夕陽を……とか、校庭の片隅で…とかまあ、そういう話をしていると、「そんなの、子どもっぽくてダメ、私はもう大人の恋愛をしているんだもの」という子がいた。一つ年上で15歳だった。

 十人ぐらいはいたグループの注目を集めて、言うには、「キスよりも、抱き上げてベッドに連れて行ってくれるほうがいい」なんていう話。一応それが「眠るため」でないのは全員にわかった。わかったけどそれ、聞いちゃってよかったの?
 やさしくお姫様抱っこでベッドに移動……たってちょっと、それ相手は誰?相手はなんと学校の先生!その子が通う中学校の先生。
 興味津々という感じで話を聞いている子もいたが、私は「それってまずいんじゃあ」と思っていた。

 12歳年上だという「大人の彼氏」が、その子はとても自慢のようだった。そんなキスだの手をつなぐだのというような「こどもっぽい」恋愛ではなく、「そういう関係」になるのが本物で、大人の恋愛なのだと言っていたが、私はかなりもやもやしたものを感じて、こういうのって誰に言いに行けばいいんだろう……と思ったのを覚えている。

 近所に住んでいる子ならその子の親御さんであるとか、その子の学校であるとか…に連絡できたのかもしれないが、その子の家とうちは直線距離でも30キロ以上離れていて、全く生活圏が別。何も出来なかった。その時グループにいた、本人とは別の友達ともそのあと話題に出して話しあったこともあるのだが、「本人たちがよければ、それでいいんじゃないかなあ。私だったら10個も年上のヒトなんていやだけど」という結論で終わったと記憶している。

 大人になってから思いだして、こうやって文章にすると、めちゃくちゃマズいじゃないのこれ!!
 中学生に手を出す、それも自分の学校の教え子に手を出す教師??
 知識もそれほどない中学生、大人ぶりたい年頃だということを利用して手を出すなんて。こういうのを「同意の上」というのだとしたら……。

 国によっては、成人が18歳以下に手を出すと何はともあれ厳罰になる国もあるそうだ。未成年同士なら、罪にならないが、年齢が10年とか違うと罪になる国とか、学校で生徒に手を出す教師は罰則が特筆で別にあるとか、そういうシステムになっている国もあるらしい。
 さすがに小学校はないだろうけれども、中学生に教師が、なんていう話が最近ニュースでも取り沙汰されていたが、別に今に始まったことではない。私が聞いた話は1980年代の話なのだ。

 いくら同意したからと言っても、未成年保護のために何か具体的にこういう時に対処できる法律はあったほうがいいんじゃないかな、と思う。
 

神戸市長と組体操

朝日新聞の2019年9月24日の記事から。
 神戸市の市長さんが、ツイッターで組体操でけが人が出ていることをあげて、教育関係者は組体操をやめる勇気をもってほしい、という意見を出しているという記事だった。

 小市民の感覚でいえば、例えば市長さんが組体操はけが人が出るから危ないのでやめたらどうでしょう、と言ったらいきなり中止に出来そうな気がするのだが、そうするとこういう「まあ、そうよね」と思うようなことだけじゃなくて、好き勝手に「それはないんじゃない?」というようなことでも市長さんが教育に口を出したときに止められないので、市長さんは教育現場でのいろいろには手を出せないようになっているらしい。

 神戸市では、この3年間に小中学校で123件もの骨折事故が起きていると書いてあった。「骨折事故」ということは、捻挫だとか、打ち身だとかはこの件数に入っていないのだろうな、ということを考えると多分、そういう事故も含めると件数はググっと増えると思う。多分、2倍ではきかないだろう。

  このブログに載せた写真は、朝日新聞の9月24日のもの。上の段の右側の「3」の番号のところにある、「サボテン」は私も覚えがある。けどこれ、1、2のところにあるその「サボテン完成までの過程」が!これ、昨今のお子さんたちは出来るのか?私が中学生の時出来ただろうか、と思うと、「上の役は無理」だと思う。
 私が小中学校の時にやった「サボテン」は、スタート時に一人が立って、もう一人が後ろにしゃがんで足の間に頭を突っ込み、その後立ち上がって肩車になるところからのスタートだった。
 次の号令で上の人が下の人の太ももの上に足を置き、前に立ち上がる動きを見せると同時に、下の人は足の間から頭を抜いて後ろに反り、この写真の「3」の状態にもって行って完成。

 この写真の通りにサボテンをやるとしたら、まず難易度が高い「倒立」からスタート。そのあと2番で前の人が足を押さえて後ろの人が勢いよく振り上げて腹筋力で起き上がる……?これ、運動部の子はともかく、文化系だと無理じゃない?どうにも起き上がれなかった時とかには、下の子が後ろに重さがかかりすぎて尻もち、上の子は足が上で押さえられているのでにっちもさっちもいかなくなって共倒れになるよね?頭や顔が前の子が後ろに倒れると同時に地面に激突しそう。こういうプロレス技、なかったっけ?
 失敗した時のとっさの行動で全員パッと手が付けたり、足が外せたりするわけじゃない。組体操は「全員やる」ことになっているケースが多いからねえ……。

 私が子供のころ――つまりまだ昭和50年から60年代だった時代でも、「昔より体を動かさなくなって筋力がなくなっている」と文句を言われていたけれども、さらに歩かず体を動かさず、外で遊ばない平成キッズにこれは相当無理があると思う。この写真の下の段の帆掛け船も、上の子の手が滑って下の子と頭突きになりそうな感じだし、腹抱え倒立も、安定しなさそうだ。(この2つは私はやったことがない)

 大体、体育大学ではじまって、そういう大学出身の体育の先生を通じて全国の学校に広がったという組体操。難易度が高い技は体育大学の学生には出来ても、全員には無理よね。
  手をつないで広がる「扇」とかでけが人がそうそう出るとは思わないが、神戸ではこの図にあるような技をやらせているのだとしたら、骨折だのケガだのが多くなるのも無理はないと思う。

 せめてもうちょっと難易度を下げないと……。体育の先生になろうなんて思う人は、絶対体育が得意な人だ。小さい頃から体育が大好きで、成績もよかったことだろうし、学校の体育でやることならなんでもきっと上手に出来た、そういう人が体育の先生になる。そういう人にとっては、体育が苦手で、がんばってもうまく体が動かないというような子どもが一定数いることが多分、理解できないんじゃないかなあ。練習すれば出来る!というような感じになりやすいのだと思う。

 多分練習すればある程度はうまくなる。体を動かすことは全部そうだと思う。ただ、その過程がもっと小刻みに設定されているとか、難易度が低いとかでなければ失敗が多くなって、ケガもしやすくなるのが「運動神経の悪い人たち」だということは、わかってほしい。運動神経がいい人だけ選抜してやるのでなければ、難易度を下げない限り危ないのだ。

 勉強が「やってもそれほど出来ない」人がいるのは見過ごされるのに、体育だけなぜ難しくても全員がやらなきゃいけないんだ……とため息をついていた私としては、難易度が下がるのは大歓迎。自分の子供が危ない目に遭わないのもありがたい。
 怪我までしてやることではないよね。ほんと。

 怪我が多いタイプのを調べて、それを取りやめるだけでもだいぶ違うと思う。神戸の市長さんは、自分に出来ることをして、頑張ったよね。
 こういうことって、「伝統だから」「習慣だから」で通されてしまうことも多いからね。ちなみに、うちの町では、組体操の演目に、集団でやるダンスと体操の中間みたいなマスゲームをいれて、人と組むところを減らすことにした学校が多い。中学校ではどうなんだろう、まだ見に行ったことないけど、多分小学校で減っているということは中学校でもそういう対策をしているんじゃないかなあ。


保育園無償化って効果あったのかなあ。

 私が住んでいる町は、中規模で、割と便利なところにある。大都市圏に仕事に行く人が住む街、といったところだ。
故に、人口が増加傾向にあり、駅前にはマンションが並び、まだ新築のマンションがじわじわ増えている。市内の学校には、大型マンションが近くに建ってしまって教室が足りなくなったところがあるぐらいだ。(マンションの子は越境してちょっと遠めの小学校に通っているのだとか)

 少子化の昨今、学校の教室が足りなくなるなんてねえ。ちなみに、30年ぐらい前にいくつかの学校の統廃合があったぐらいには少子化だったらしく、「あの時に学校を壊さなかったら、今使えたのに」という笑えない話もあるらしい(今は廃校は公園になっている)。
 
 ここに引っ越してきたときに、試みに調べてみたら保育園の待ち人数は200人近かった。母子家庭か、お父さんが病気で失職というような事情があるのならもっと順番は早まりますが……というような説明はあったが、市内でも相当遠くの、隣町のほうが絶対近いからというような場所にある保育園とか、山の上の方に「こんなところに保育園あるんだ?」みたいな場所のものは数十人待ち程度。
 とてもじゃないけど入れる気がしなかった。

 認可のない保育園……というにはあまりにもせまそうな、ビルの2階と3階が保育園みたいなのとかは、ないではないみたいだったけれども、保育料がびっくりの高額、こんな額稼げないって。みたいな話だったので、結局仕事にはつかなかった。
 もちろんこの町でも、市議会選挙だのなんだのということになれば、「保育園待機児童を減らします」とか、「保育料の軽減」とかが話題になるし、この間は国でも「無償化」」とかやったのだから、もっと入りやすくなっているといいな…とは思うけれど、実情どうなんだろう。

 私の息子はもうかなり大きくなったので、保育園だの幼稚園だのに用事があるママ友さんは減ってはいるが、そういう人たちと話をする機会があった。
 「新しく保育園を作る」という話は噂で聞こえていたが、待機児童がかなり減ることを期待して作った保育園も、もちろん一瞬で埋まってしまい、(それも、開園前に)「保育園が出来るのなら、預けやすくなるわよね、私も働こうかしら」と思ったお母さんがかなりいたらしく、結局待機児童の数はかえって増えたぐらいの勢いらしい。

 「どうせ無理よねえ」と思ってあきらめていた保育園が、「一つ丸ごと増えるのなら、きっとチャンスがあるはず!」と思ってやる気をだして就活に挑むお母さんが増えるということだ。隠れ需要ってやつだね。
 今は年齢も高くなったし、この年齢で雇ってくれるかどうかはかなり厳しいから、それほどもう働くことに未練はないけれど、子どもが小さく、私も今より若かった頃は、実はちょっと働きたかった。

 でも、保育園はやっぱり足りなかったし、幼稚園のお預かり保育まで考えても、なかなか難しかった。
 夫は、「全員、入れるようにはなってないのだから、誰かが家で子育てするしかないんだよ」、と私が働けないのはしょうがないことだというスタンスだった。夫が私の稼ぎがなくても生活出来るだけ稼いでくれてよかったとは思う。

 でもこれが、夫の稼ぎが3人暮らすのにつらいぐらいしかなかったら……。フランス人と結婚している私の友達はフランス在住だが、働きたい人が全員預けられるようになっているそうだ。それはまたすごいな、と思うけど、そういうのって、どこから財源取ってるんだろう。なぜ日本では出来ないのかなあ。

 保育園が無償化して、入りたい人が増えて、みんなが働いて……。そういうことが出来るようになっているのならいいけれども、身近な人を見る限りでは、あんまりそういう風にはなっていない感じがする。
 無償化で、預けたい人が増えて、保育園や幼稚園の先生は増えなくて、結局待機。
 そうこうしているうちに子供が小学校に入れる年になってしまって、次に足りないのは学童保育。

 3年生にもなれば、学童保育はもう、この町にはないから、いきなりかぎっ子。まあ、そういう子は昔からいたけれども。
 有償の学童保育は3年生から上もあるらしいけど、月に6万円とか聞くと、うわあ、ってなる。習い事に出す?

 食料品や日用品を買いまわる手間が取れないとなると、生活費も上がる。結局専業主婦のほうが安上がりになってしまう世帯もあると思う。無償化といいつつ、この町ではいきなり全額タダになったりはしないらしく、「軽減」はするものの、やはり数万円は当然のように出すことになるらしいから、厳しいよね。

 何が足りないのか…というと多分、「子供が理由で」休める制度が少ないのと、そういう理由で休んだことで査定が下がる習慣があることなんだろうな、と見当はつくけれども、なかなかそういうところって変わらない。
 共働きでもなんとかなってますというところは、大抵親がそばにいて、病気の時にはそこに預けることが出来るというような話が多い。
 結局、そういうところは40年前と同じなんだよね。晩婚化で、そういうのに無理が来ているというのは全然計算に入ってない。
 40代で祖母になったという友達を見ていると、昔はこういうのが普通だったんだろうなー。と思うし、楽しそうだ。
 でもうちの息子が例えば、35歳で結婚したとしたら、私70近いわけよ。無理感ありありだ。

 保育園の送り迎えと思われる、布団袋2つ提げて、自転車の前後に子供を乗せたお母さんとか見ると、昼寝の布団まで毎週持って帰って洗濯を求められる習慣は、どうにかならないのかな…と思う。アメリカの保育園の昼寝マットは、保育園の備品で、ヨガマットみたいなやつだった。部屋が温度調整してあって、何もかけないでゴロ寝。ホースで流してジャバジャバ洗えるマットで十分だと思うんだけど。
 保育士さんがノート書いて渡すとかも、毎日やるのはあんまり聞いたことがない。特筆すべき問題がなければ、別に……ぐらい。保育士さんも、お母さんも負担が減るように効率化してもいいんじゃないか、と思う。

ブログを何のために書くか。

私が普段読みに行っているブログ、【Waraund.50 ふうこ♪のある時ない時+闘魂ブログ】で、7月20日に書かれていた記事「長年ブログを続けている人はもうやめようと思ったことはないのか」を読んで考えたこと。

 時々ブログをやめようかな、と思うときがあるという話で、誰のために書いているんだろうとか、自己満足にすぎないのではないか、とか悩んでいる話が書いてあった。

 私も、改めてそう突きつけられると、答えにくいな、と思う。

 7月の途中から、いつもなら大体2週間は先に貯めておくブログの記事のストックが切れて、2日分ぐらいしかなくなったことがあった。何を書こうか、明日はもう書くことがなくなるんじゃないか、とか思うとちょっと気が気ではなかった(また2週間ぐらいのストックに今は戻っている)。

 でもせっかく「毎日更新」とか題名に入れているブログではあるし、毎日更新しないと絶対更新できなくなると思うので、毎日書きたい。

 書いて何になるのか?と言われると別になんにも、と言うしかない。株式情報とか、投資のコツとか、お得な情報とかがあるわけではないし、読んでためになるようなことが書いてあるわけじゃないからね。

 でも、書くのが楽しいか、と言われると答えはYESだ。大体あんまり頭を使わない生活をしているので、こういう文章を書くのは多分、脳トレになっている気もするし、知り合いがただでさえ少ないので、ブログを読みに来てくれる人と、薄くてもつながりを持てることは、私の気持ちの助けになっていると思う。

 こんな「ブログ」なんていうものがない時にも、私は日記をつけていたことがある。後から読み返すと自分でもすっかり忘れているようなことが書いてあって面白いし、大体日本文学には「日記文学」とか言われる分野もあるぐらいだ。自分の覚書として書いた日記が、その人の死後読まれるようになったなんていう話があることを考えると、やっぱり「他人の日記」というのは読んだら面白いということではないだろうか。

 他の人の心が、垣間見えるような日記を読むことは、読まれる本人には恥ずかしいこともあるだろうが、たとえば鍵付きの日記帳があったり、「隠してあった日記を読まれる」というような話は聞いたことがあるから、やっぱり「どんなことを書いているのだろう」と覗き見るような興味深いものだということは、ネットがないころからのお約束なのだろう。

 私が思っていることを文章にして、もやもやしていることを書いたり、落ち込んだ時にはブログをはけ口にしたりするのは、つまりは紙の日記帳に文章を書いていたころと変わっていない。楽しかった体験や思い出を取っておくために書く。
 つらいことがあったときにも、書く。体験はどれでも、その瞬間が一番新鮮で鮮烈であり、時が経ったらぼやけて、薄れて、忘れ去られていくそういうものだからこそ、文章に書いて残しておくのがいいと思っている。

 読みに来てくれる人も少ないけれども、でもいいの。紙の日記帳と違って、他の人が手に取って読んでくれる、ネットの日記帳は、コメントをもらったり、「私も同じこと考えてる」とか感想を持ってくれる人がいるのがうれしい。

 自己満足でいいんだと思う。世の中の趣味なんてね、ほとんどが自己満足なんだから。世のため、人のためになる人なんて一握りだと思う。

 私はそういう人にはなれなかった。でもきっと、私みたいな人がほかにもたくさんいる、そう思う。

「おまえだけじゃない、みんなもつらいのだから、大丈夫」そう言われて、なんとなく納得した気がしてくるけど、自分だけじゃないからと言って、何が大丈夫なの?というのを読んだことがある。確かに、他の人も同じような体験をしているからといって、今経験しているつらいことがなくなるわけではない。ないけど……

 でも、私だけじゃないと思うと、なんとなくほっとする。そういう効果が多分、ブログにはあるのだと思う。

残る友達、残らない友達

夏になると、里帰りがある人が多い。
 お盆じゃなくて、まずこのシーズンに帰ってくるのが多いのは、学齢期の子供があるアメリカ住まいの友人。
 アメリカの小学校は6月から夏休み。昔農業国だったころの名残で、夏は農作業で人手がいるシーズン=休み、というのがそのままここまでひっぱっているということらしい。

 確かに「大草原の小さな家」のローラは学校に行くのは冬だけだったりしたものね。

そんなわけで、私のまわりにもちらほらと帰国してきた連絡があった。

 会いに行った友人は、高校の時の友達。それより以前の友達は、もうひとりも残っていない。
 子どもの頃に住んでいた町にも全然行ったりしないので生死不明だし、連絡も取らないし、年賀状も送らないし、なんなら同窓会だって連絡がない(あってもいかないけど)。

 その友達は外国に住んでいるのだが、私のこのブログを読んでいるので、私が最近どんなことをしているか、何を考えているかはある程度見ているのもあって、そんなに久しぶりな感じがしない。
 日常のことや、家族のこと、昔の思い出。話は尽きない。

 ふと、彼女がいった。

 「もう、出会ってから何年?三十〇年になるけど、そのころの友達で残ってるの、まこちゃんだけよ」

えー。友達が少なかった私と違って、彼女は割と高校の時からいろいろな人に囲まれていた感じがする。
 
「あの当時も、別に『私たち、親友同士ね』なんて言ったりしたことも全然なかったのに、ただ、ずっと続いているよね」

 うん……。「ずっと仲良く、親友でいよう」なんていうようなことを言い合った友達はほかにいた。でも、私が外国へ長い間行ったり、お互い子供が出来る時期がずれたり、共通ではない趣味にはまったりして、気が付いたら疎遠というか、SNSでいいね、だけ押しあっている人というのは、ある。

 目の前の彼女は高校の時とさほど変わったようにも見えない。お互い住んでいるところが遠くて、数年会わないなんていうこともざらにあったし、なんなら連絡も2、3年取らなかったこともあると思う。
 誕生日のお祝いもSNSのメッセージにうっかりしなければ入れる程度。

 でも不思議なことに、私はだからといって彼女の友情を疑ったことは一度もない。
 ママ友さんにはお茶のみ友達ぐらいまでは行っている人もあるけど、連絡がなければ「きっと私と出かけるのがつまらないからかも」とか思ってしまうし、長い間連絡がなければ、こっちから連絡をするのはなんとなく、相手に無理強いをするようで気まずい感じがしてくるのだが、もっともっと、長い間連絡せず、遠くに住んでいる同士なのに、「私って、もう友達なんて誰も残っていないんじゃないだろうか」なんてことが頭に浮かんでくるときも、「まあ、彼女は別にするとしても」というのが、頭の片隅に残るぐらい。

 大好きだ、と思う。信用できるし、すばらしい人だと思っているし、でもそんなことを彼女に面と向かって言わないのが日本人的メンタリティ。でも、きっと彼女もわかってくれていると思う。私がどんなに強情で、おっちょこちょいで、口下手でも、それをものともしない。
 私が、失敗したな、と思ったとき、私が仕切りなおして言いなおせば、前の発言は聞かなかったフリもしてくれたりする。
 さっきはごめんね、というと、「なんのこと?」ぐらいにサラッと流してくれる、とてもいい人だ。

 きっと彼女は私がこんなことを考えていると知ったら、「考えすぎよ」とか「ほめすぎ」とかいうのだろうけれども。
なぜ、友達に長続きして残る人と、そうでない人がいるのかは、全然、わからないな…。

 彼女と別れてから電車に乗ったとき、そう思った。また、会いたいなあ。

 とはいえ、外国は遠い。今度会うのはやっぱり、2、3年後になりそうだ。
 

組体操の話

運動会、うちの近所の小学校ではまだ9月だが、近隣の市町村では5月の終わりとか、6月にやる学校も増えてきた。
今日のブログはママ友さんたちの間で話題になったとき取っておいたメモから。

 組体操というのは、3、40代から上だとほとんどが体験したのではないだろうか。
ほこりっぽい運動場に、裸足で並ばされて、校庭いっぱいにレイアウトされ、二人組からスタート。
1人がもうひとりを肩車して、笛の音で下の人が上の人の両足の間から後ろに頭を抜き、前の人の太ももあたりを支えて、上の人は下の人の太ももの上に足を置き、前にせり出した形になって完成の「サボテン」あたりが2人組体操の高難度だろうか。

 3人組になると、スタートは同じく肩車で、上に乗った人が、下の人と向かい合わせになった3人目の肩に手を置いて、下の人が後ろに下がって上の人の足首をぐっともちあげて作る「橋」だとか、向かい合って両肩にお互いの手をのせて組んだ人の上に一人が立ち上がる「神輿」(名前はうろ覚え)とか。

 4人組の技で難しいのは、輪になって肩を組んでしゃがんだ3人の肩の上に一人が乗り、笛の音で下の3人が立ち上がり、そのあとの笛で上の一人が立つ、「タワー」。

 このあたりで、集団演技に移って、6人、3人、1人のタワーのまわりを、人数が少なめの演技で囲む形になって、最後が大ピラミッドとその両側に並ぶ小ピラミッドで終了というのが私が経験した演技。

 今書いていて思ったけど、危ないよね、ほんと。もちろん上に書いたもの以外に、手をつないで扇の形を作るのとか、膝をついて座って手をつないで花のように広がって反るとか、危なくないものもあったけれど、運動神経が悪かろうと、平衡感覚が悪かろうとともかく全員参加だった。

 私は体格的にはそれほど大きくなかったので、大ピラミッドだとか、タワーだとかでは中の段を担当することが多かった。
 ピラミッドも、昔のは四つん這いになって、全体重を下の人にかけるタイプだったし、中学校の時はピラミッドの一部が崩落したのも見たことがある。誰かが手首を折ったという話も一度聞いた覚えがある。

 これが、親になった今、考えると正直なところ、すごくやめてほしい。去年、隣の学校の、幼稚園が一緒だったお子さんが頭を打って病院に運ばれたという話はものすごい速さで伝わった。(ちなみに、骨にひびが入ってしばらく運動禁止になったそう)うちの息子は体格が小さいのでうっかりするとピラミッドのてっぺんになりかねない。あんまり運動神経もよくないから、大丈夫だって、とは思えないのだ。

 ……と思っていたら!うちの学校の組体操は、近隣の事故例が多い話と、教育委員会の指導だか何だかにより、どちらかというとダンスとかに近い構成になったらしい。「扇」はあるそうだが、まああれはね…全員の足が地面についている状態だし、主な見せ場は全員が輪になったウェーブ(立って、腕の上げ下げで作る)らしい。で、一番難易度が高いのでも、四つん這いになった人の上に立つのと、2人横並びで片膝を立てた人の上にひとりが立つぐらいらしい。

 まあ…そのぐらいなら大丈夫でしょう、うん。

 あれで忍耐と協調が学べるのだ、親の世代だってみんながやったのだからやらせろ、という意見も依然根強いらしいが、運動会の練習をやるだけでも忍耐の訓練には充分なると思うよ…。協調だって大体日本の学校では給食当番だの掃除だのだってやっているのだから十分だと思う。授業にグループワークもあるし。

 怪我の危険まで冒してやらなくていいと思うよ、本当に。
 ちなみにネットで調べたら、最初は体育大学の生徒さんたちがやったらしい。

まあね……そんな大学に入ろうと思うぐらいなんだから、運動神経は全員いい人だっただろうし、体育の好きな人ばかりだったんだろうから理解できる。そういうところでなら、まだやってもいいと思うけど、筋力がそれほどない小学生や中学生が全員でやるのはもう、やめちゃってもいいのにと思う。
 せめて志願者だけやるとかさ。今年は組体操の志願者がいないのでダンスにします、でいいと思うのだけど。

遠くの歌

いい表現だなあ、と思ったのがこれ。
  北京で哲学を研究していた胡さんは1980年代、「言論の自由を論ず」という論文で大きな反響を呼んだ(中略)この論文づくりに着手した70年代は、考えを深めようにも周囲に欧米の文献がなかった。ロックやミルといった思想家の名前は聞いたことがある程度。「遠くから歌が聞こえるが何の歌かわからない」という感じだったそうだ。
朝日新聞2019年6月5日夕刊記事「天安門事件から30年 抑圧から生まれる自由の思想」 村上太輝夫さん より抜粋

 「遠くから歌が聞こえるが、何の歌かわからない」
すごく、わかる感じがする。

 大勢が声を揃え、連帯の歌を歌っている。勇壮に、高らかに、人々を勇気づける歌を。
 自身を鼓舞し、一人ではないのだということがみんなにわかるように、湧き上がり、広がる歌が、遠くで聞こえる。

 その主張に自分も加わりたい、その連帯の一員になりたい。そうあこがれる気持ちを誘うようなその旋律が途切れながら聞こえてくる。遠くて、たどりつけないようなところから。

 まだまだ社会には未解決な問題があって……。当事者になるのはなかなかに難しい時もある。
でも誰かが歌を歌い続けることによって、少しずつ変わっていく。みんなが寄り集まって広がっていく。そういう絵がこの文章から見える気がした。

 いい文章、いい表現というのはすごいなあ。当たり前の言葉しか使っていないのに。
 あこがれるなあ。こういう文章が書きたい。

給料は昔、高かったのだねえ。

新聞のニュースで、関西の私鉄、阪急電車が電車の中吊り広告に出した言葉のうちいくつかが、評判が悪かったので取り下げたという話があった。
 特に評判が悪かったのは、こういうのらしい。
毎月50万円もらって毎日生き甲斐のない生活を送るか、30万円だけど仕事に行くのが楽しみで仕方がないという生活と、どっちがいいか。

研究機関 研究者/80代

 (出典は、株式会社パラドックスというのが著者になっている、「はたらく言葉たち」という本から)
うーわー。かーねーもーちーーーー。と思った。だってね?私が20代半ばで独り暮らしで働いていたころの手取りは17万とか18万とか。確か新入社員の時の最初の給料は手取り13万5000円程度だったはずだ。自分で手取り分で30万円も稼げるようになるとは全然思っていなかった。18万ぐらいだったときだって、天引きで貯金だってしていたし、自分で家賃払ってご飯食べて、ついでに友達と時々旅行だってしていたし、ほしいものだってある程度は買っていた。「こんなもんだな」と思っていたのだ。

 額面でなく、手取りで30万円と言えば、もう30代から40代の男性が家族手当とかコミで稼ぐ給料だと思っていたし、忙しかったものの「ふつーの事務職」で稼げる給料とは思っていなかった。バリバリ営業事務をしている、誰もが認める会社で一番の事務系の50代お局様の給料だって手取りだったら50万行くのか?という感じだったという小さい会社だったのもあるだろうが、手取りが15万なんて珍しくもなかった。

 手取り30万もあれば、大抵の人はそれなりに暮らしていける。たとえ誰かを養う立場にあっても。この現代には、体がつらくなく、合法的な仕事ならば、嫌いな仕事でも手取りに30万円もくれるのなら文句は言えない。若い世代ならなおのことだ。嫌い……というか好きではなくても、慣れてくれば淡々と働くのに支障はない。手取りが30万なら、額面だと35万ぐらい?そういう給料で働いている人、結構多いはずだ。
 仕事は楽しいに越したことはない。それは確かにそう思う。でも楽しくなくても生きていくのに必要な分は稼ぐことになるんだから、楽しくなくてもやる。そういうものだと割り切ることにしている人が多いから、こういう言葉は、大多数の人が感じているところから「ずれている」と言われるのだと思う。

 それに、手取りが50万もあったらね?仕事に生きがいなんか求めなくていいんだよ。なぜそこで生きがいを仕事に設定するわけ?それだけお金があったら、趣味に使える金額だってあるんだから、仕事は生活のためと割り切って、もっと楽しいことをすればいいのだ。これは50万もあるのに、生きがいを見つけられないっていうのが問題だと思う。
 私だったら、ひと月の可処分所得が50万もあったら、必要経費を抜いて貯金しても絶対、何万円かは使えるとなれば、ほしい本があったり、やりたいことがあったり、でなければ旅行だってこう…とかまあ、いろいろ頭に浮かぶわけだ。

 きっと、みんなもそうだよね?
 そうなるとこの言葉を出した人に、仕事で燃えつきてるの?とか問い詰めたくなるってことだ。

 そう思いながらニュースを新聞で読んでから、もう一度このブログにそれを写そうと思ってから、この言葉が誰から発信されたかを見た。80代、かあ…。
大体研究職というのは給料高いもんねえ。プラス80代ってことはあの高度成長時代+終身雇用の恩恵をフルに受けた時代でもあるし、もしかしたらバブルのあの頃に退職金+再雇用の時代かもしれないっていうこと考えたら、こういう考えが身につくんだろうけど。

 今の時代には、そぐわないよねえ。反感やむなし。他の、もっと感動的なものや、共感できるものもあるようなのでこれ一枚だけを取り上げるのはちょっと恣意的ではあるが、これにチェックが入れられなかった広告担当の人の給料も高そうだな、と思った。

スズランの花

この花は英語では「Lilly of Valley」というらしい。日本語ではスズラン。
 
 日本では蘭の一種みたいな名前で、英語だとユリっぽい?
 雨の中をぼうっと歩いていて、「この葉っぱは雨をはじくんだなあ」なんて思って撮った。

 この植物には毒があるらしいのだけれど、とてもかわいい花だし、食べるわけではないのならいいよね。
 そういや、この花が好きだといったら、毒があるのに好きだなんて変だと私のことが嫌いなクラスメイトにいちゃもんつけられたことがある。小学生の時だ。
  
 彼女は私と幼稚園が同じで、私をさんざんいじめて、隣の小学校だったのでほっとしていたら途中から転校してきて、またいじめられた覚えがある。気が強くてなんでもずけずけ言い、周りの子を従えて私を仲間外れにしようとする子だった。
 はっきり面と向かって嫌いだと言われたこともある。でも、理由は不明だった。
 いつだっただろう、私が勉強が出来るのがイヤだったというような話をちらっと耳にはさんだ。中学の途中だったと思う。
 彼女も相当できたと思うんだけど……まあ、私はあの頃はテキトウにやっていても点数が取れたころで、定期テスト前にクラブがなくなったら大喜びで図書館に通っていたからなあ。周りから見たらふざけているように見えたかもだけど。
 私は当時は勉強なんか出来て当たり前と言われて育てられていたので、何が問題なのか全然わかっていなかったから余計神経逆なでしたかもだけれども、正直他人のことまで気なんか配れないタイプだしねえ。それはもう今も同じだけど。

 でももう、そんなことだって忘れちゃっていいのだ。
 全部、忘れてもいい。もう30年も前のことで、私はその人とお付き合いもない。あの町にも滅多なことで足を踏み入れない。
 あの頃の私は、ただただ日常を淡々とこなしているだけだった。

 大人になって結婚して、住むところも移って、子どもも出来て……。
  その子があの頃の私と同じような年齢になって。 
 
 年月が経ったんだなあ、と雨の中のスズランのにおいと傘に雨粒が当たる時の音にしみじみした。

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    まこ

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