一瞬だけだけれども
気分が正直上がらない時も。
ずっと同じような気分を抱えているとつらくなる感じがするので、面倒だな、という気分を無理に抑えて、外に買い物に出る。
どうせ夕飯は必要だし、有酸素運動……というほどではなくても運動はセロトニンの分泌がよくなるとかいうし!
かなりの田舎に住んでいた子供のころと違って、近隣には野原とか、山とか、森とか、自然公園とかもないから、他所の家の手入れされた花壇でもない限り咲いているといってもこんなものだ。
これはちなみに、草ぼうぼうだった昭和っぽい家が取り壊されて、跡地にかわいい家が何軒も建ったのだが、そこの駐車スペースのコンクリートの隙間から、ガッ!と生えていた。根性あるなあ。
この花は私が小さかった頃に、河原とか用水路の脇とかによく生えていた。茎を折ると白い汁が出るので、タンポポの仲間だと認識されていた。この花が終わると、白い綿毛が出来るのだが、これを近所の子が嫌がるのが不思議だった。
これは子供たちの間で「耳にこの綿毛が入ると耳が聞こえなくなる」と言われていた。私は、そんなものが入っただけならお医者さんへ行って取りだせばいいだけのことなのだし、いきなり耳が本当に聞こえなくなるような毒があるとしても耳からはないよね?とか考えていた。それを「デマ」と判断していたわけだ。大体タンポポの綿毛はみんなが喜んで手に持って吹き飛ばして遊んでいたのだ。これだけを怖がる理由なんかなかった。
一応父には「これが耳に入ったら、耳が聞こえなくなるというのは、嘘だよね?」と確認はしたあたり、自分の知識が足りないということに自覚がないわけではなかったが。同じようにススキの穂のふわふわも耳に入ると聞こえなくなるという話をしている子もあった。それが怖くて、ススキとか、この写真の草とかが生えているところに来ると、耳をふさいでキャー―!と駆け抜ける子もいた。怖いから近づかないという子も。
ばっかじゃないのかと思っていたけど、ああいうのもノリでみんなに合わせるのがフツーだったんだろうか。
4、5歳の頃からかわいげがなかったということなんだなあ。
そういやあ、「キリン草」(正式名は確かセイタカアワダチソウ)も、吸い込むと病気になると言われていて、「キャー」と走る子がいたのを思い出した。割と荒れたところにしか生えないものだったので、少なかったからどうにかなったが、多分キリン草の花粉のアレルギーがあるというようなことから出てきたデマだろうなあ。私は確かそれも「もしそれが本当だったら大人が放っておくわけないじゃんか」と思っていた。
そういうことを思い出したり、冷たくなってきたそよ風に、秋の気配が見えて、空の薄青さが「高くなった」ということなんだろうな、なんて思いながら歩いて、牛乳2本、大根とネギと豆腐と、卵1パック、肉とトマトにチーズ……とリュックに詰めて帰ってきた。
夕飯にシェパードパイ。付け合わせがダシ味の煮物とベーコンの大根炒めなあたりが家庭料理。
すごくはつらつとしてやる気が出たりはしないが、「まあ、こんなものだろうなあ」というあたりに落ち着いた。
ちょっと違うことを考えられるように、毎日そうじせんたくごはんが出来るようにっていうのが大切だよね。
掃除洗濯食事の準備は私の仕事なんだから。しかし毎日で休みが全然ないのはどーかと思うけど。土曜日は掃除も洗濯もごはんも全部なし、とかだといいのになあ。さすがに一人暮らしではないのでそういうことが出来ない。
お花屋さんの前を通るルートで買い物に行くのはどうかな?(タダだし)なんてちょっとけち臭いことを考えながら料理をした。
つつじが伝えるもの
つつじがきれいに咲いている。
私が小さかった頃は、この花をひっぱって木からとり、花の根元のほうを口に入れると蜜の味がして甘いというのはみんなが知っていることで、ほこりが衛生がと言われていた割には、小学生ならかなりまじめな女子であっても、試したことがあるようなことだった。
田舎に住んでいれば暇つぶしに草花で遊ぶこともあって、たとえば用水路や川に笹舟を流すとか、エノコログサを毛虫に見立てて遊ぶとか、笹を三角にたたんで笹飴を作る(食べられない)とか、タンポポの茎で水車を作る(吹いて回す)とか、草の茎をつかった草ずもうをするとか、カラスノエンドウを笛にして鳴らすとか、ぺんぺんぐさの種がついているところをぶらぶらにして振ったら音がするおもちゃにするとか、お花をつないでネックレスや、花冠にするとか…なんていうようなのがあったものだ。
息子が小さいころ、散歩の時にそういう草を見つけては教えたりしてみたこともあるのだが、あれは誰かと一緒に遊んだりしない場合は動画やタブレットで育った世代には面白くないらしくて、つまり近所では『そんなこと誰もしないよ』という感じだった。
…と思っていたのだけれども、この間、つつじを口にくわえて学校から帰ってくる男子を目撃した。
それも、ひとりじゃなくて何人も。
息子に、「つつじを吸うのってやったことある?」と聞いたら、「知ってる、あれ甘いのだよね」と。一度やってはみたらしい。いい加減な私の息子なのに、地面にベタっと座ったりするのも嫌がるし、木の実なんか取って味見したりなんかしないので、こういうのもやったことがないだろうと思っていたからちょっとびっくり。
つつじの花を吸うのだけは、代々子供の知恵(?)として現代まで消えずに受け継がれてきたようだ。
やっぱり食欲がからんでくるからかなあ。
つつじが満開で美しかったけれど、さすがに今となっては人の家の生垣のつつじをむしるわけにもいかない。あの味は私にとってもう、幻の味だ。
とか書いていたら、あのしっとりした花びらの冷たさと、薄い甘さと、花のにおいが唇によみがえった。
ピンクのお花
小さい頃、絵を描いた。女の子の絵が多かったと思う。背景には、赤い屋根の家、足下には花が咲いている。てっぺんが3本のギザギザになったチューリップ、それから真ん中に○があって、周りを花びらで囲んだ、5弁の花。
そういうときには、タンポポみたいな花とか、朝顔みたいな花は描かなかった。百合みたいなのとかアヤメみたいなのも描かなかったなあ。
あのてっぺんが3本のギザギザになったチューリップや、真ん中が丸で、5つ花びらがついた花は記号としての花であって、本物の…植物の花は、もっと複雑な形をしていることが多いのは、幼稚園児の私にもわかっていた。庭に咲いている花には、こんなのがなかったからだ。
この間、この写真の花が、近所のプランタに育てられていた。このなんともいえないピンクといい、形といい、おもちゃみたいだ…。でも、本物の植物なんだよね、これ。真ん中が○で、その周りに5枚のかまぼこ型の花弁が配置されている。まさに、子供の落書きみたいな形。
なんていう名前なんだろう、この花。
ひとりでいられる
前の日が雨だったからか、花粉は少な目で、気温は16度ぐらい。歩いていれば、手足が冷えてきてつらいほどではなく、春めいた空気が感じられる。
鳥も一番寒かった時期より増えている感じがするし、冬枯れのススキぐらいしかなかった河原に、新しい緑の芽や、柔らかそうな若葉が見える。
春に向けて、新しい季節への期待がどこかから立ちのぼっている気がする。だからだろうか、一人でいても、自分が何かの一部分なのだ、という気がしてくる。
誰かが一緒にいてくれないだろうか、という気分がするときがある。自分が孤独なのだという気がするときが。親しくつきあう人が、みんな遠くにいるような、近くにいる人とはそれほど仲良くやっていないような気がしてくるときがある。
でも今日みたいに、たった一人で、周りにだれも見えないようなところを歩いていても大丈夫なときもある。結局、気分の問題、ってことなんだよねえ…。
田舎に住んでいた私はずっと小さいときだって、一人でこうして河原を歩いていたのだ。誰にも気にされず、ススキや、ハコベや、つくしを見ながら歩いていた。自分も、鳥や、風や、花や…そんなものの一つなのだと感じながら。
あのつながりが、なんだったのかは、今はもう、わからないけれど、当時は全然寂しいとも思っていなかった。
その気持ちが一瞬、ふんわりと戻ってきたような、春の散歩日和だった。
森の生活
ケータイ電話が、まだあんまり普及していなかったころは、電波が届かない場所も結構あった。
今は、あんまりそういう場所は近くにないけれども、まだポケベルもあった、なんて頃は、県境までいくと「圏外」になったものだ。
*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…
こんな森の中のあずまやで、1日中本が読みたいな、と思う。
温かい紅茶と、毛布なんか持って、まあ、今よりもうちょっと温度が高いほうがいいかもしれないが、誰にも呼ばれずに、夕飯の支度のことなんか全然気にせずに。
暗くなって活字が見えなくなったら、本を閉じて立ち上がって、5分歩くと、家につく…なんていうのが理想なんだけど。
戸棚にパンがおいてあって、適当な野菜を切ってスープぐらいは作って…。紅茶か、ココアなんか飲んで。セントラルヒーティングなんかなくて、ストーブか、暖炉がある、そんな部屋。
小さいコテージぐらいのサイズの家で、2階にあがるとベッドがあって、ぐっすり眠れて、朝日で目が覚める。
こんな写真を見ると、理想がそのあたり…ということでよければ、今だってもちろんちょっと、それっぽくは出来る。
私が持っている持ち物のほとんどは、なくても大丈夫。本だって、もうね、ライトノベルなんかダメだ。そういう生活で読む本は、どうしたって名作でなければ。
ディケンズや、トウェインや、スティーブンソンなんかの軽いものでいいけど、木洩れ日の下で読むのにふさわしい、紙の本。ワーズワースの詩集や、ソローの「森の生活」が愛読書。
コーラじゃなくて、レモネードで、ゴアテックスではなくてウール。
そんなことを考えていると、なんとなく断捨離とミニマリストに人気があるのがわかる気がする。
自分の身の回りにわかるだけ、手の届くだけの暮らしをすること。音楽は録音を聞くのではない、聞きたくなったらもちろん自分で演奏するのだ。 セーターは寒くなる前に編み、買い物は週に1回。
あ、でも…水道はないと困るし、トイレはウォッシュレットでないとなあ…と思った瞬間、一気に現実に引き戻された。
無理だな…うん。
せめて、暖かい居間で、チェックの毛布でも膝にかけて本を読もう。
ココアでもいれて。
紅葉の季節に
毎年、紅葉は起きるのにどうしてこんなに印象深いのだろう。
この時期になると思い出す。
「木がきれいだから、遠回りしよう」と私をドライブに連れて行ってくれた人のこと。
見ながら運転したら危ないんじゃないの?という私に、別にいいんだ、と言いながら、県境の山を越える道を運転した彼。
あんまり山道だと酔うんだけどな…と思いながら、それでも眺めた秋の山は美しかった。
あんまり通ったことのない道だったが、夜になると、「走り屋」、つまり車の暴走族みたいなのが出ることがあるから…というくねくねした道を走り、隣県に入ってしばらく走ってから突然出てきた、大型ラーメン屋さんでラーメンを食べて、引き返した。
気を付けないと鹿が飛び出すという話はどのぐらい本当だったのだろう…。
毎年、この山の紅葉がとてもきれいだなと思っていて、見せたいと思ってくれたのだって。
別に、お付き合いしているとか、そういう相手ではなかった。ただの友達だと思っていたのだけれど、今ならわかる。あれはつまり、サービスしてくれたんだなってこと。
きれいだったし、多分、ありがとう、と言っただろうとは思うけど、あんなに時間のかかることを何の見返りもなく私にしてくれたのに、全然それがすごいことだとわかっていなかった。
時間はいくらでもあると思っていた、秋の日。
レトロな窓
結構な勢いで通り過ぎて行った、9月初めの台風21号。
ベランダにどこかのトタン屋根の板が飛んできて、ガラスが割れた大阪市内の知り合いとか、海沿いのマンションでガラスが割れた兵庫県の知り合いの近所の人…みたいな話ほどではないものの、私の家の近所でも、電線に工事現場のらしい、ブルーシートがひっかかっていたり、結構古そうな家の屋根の部品がはがれて落ちていたり…といったような被害は見かけた。
もう1カ月以上経つので、さすがに電線にひっかかっているものはもうないし、はがれかけた看板などももうさすがにきれいに片づけられている。
この窓は、解体途中の家のものを写真に撮った。
こういう感じの窓を、どこかで見た覚えがある。
窓の内側から外はよく見えないが、光は入ってくる窓で、外を見ようと顔をくっつけた覚えも、どことなくある。
確か、玄関ドアの横がこういうふうなあかり取りの窓になっていた家もあったような…。
あの台風は、うちのマンションのそばに大きい建物がないということもあるのだろうけれども、ガラスにビシビシと水が当たって、割れるんじゃあないかとひやひやした。
こういう窓なら、分厚くて割れなさそうで、いいなあ…って思ったのだった。
外が見えないから、閉塞感があって、ベランダのサッシには向かないか。
懐かしい窓だった。
つゆくさ
今年の九月は、雨の日が多かった。
雨の日に出かける時は、なるべく早く帰ろうと思うので、あんまり周りを見て歩かないのだけれど、ふっと通りかかったところに、つゆくさがひと群れ、咲いていた。
ちなみにこの写真を撮ったのは9月の半ば過ぎ。
私はつゆくさというのは、もっと早くに咲くものだと思っていたので、9月に咲いているのを見てびっくりした。
6月か、7月の梅雨の頃に花が咲くからつゆ草だ、と子供の頃には思っていたぐらいだ。
つゆくさは、朝に咲いて、夕方にはしぼんでしまうのだということだけれど、雨の中に咲いているとちょっと長持ちしそうな気がする。
雨の日も、楽しみを見つけられますように。思いがけない小さな美しいものたちを、私が忘れませんように。
どこかに向かって、願い事をしてから、スマホ画面の水滴を払って、写真を撮った。
いいアイディアなんて出ないけど。
答えがはっきり出ない考え事の時に、誰かと話すと…じゃないな、私の場合は話す人は夫のことが多い。単にそばにいるだけというのが人選の理由で、一人で頭の中で考えていてもそれほど答えが出ないから、なんとなく外に出してしまった…というようなとき。
この場合、夫はがんばって解決方法を考えてくれることが多いのだが、ぱっと考え付くようなことは私にだってわかっていて、「考え事」とまではいかない。
自分で長い時間考えて、答えが出ないのね、と思っているようなことの時は結局、夫のアドバイスも「そんなことを言っても、もう、しょうがないんじゃないの?」みたいなものになることが多い。
彼はそういう時、きっぱりと切り替えることが多いので、同じようなところをふらふらとさまよっている私の考えにはまず、それほど共感してくれない。
たいていの場合正解は夫のほうで、どうしようもないようなことをくよくよと考えているぐらいならば、もうすっぱり考えるのをやめて今出来ることだけをやって、または物事が動いてから対処だけやっとくことにするしかないね…というようなことが多いんだけどね。
それでもなんとなく、ちょっと時間をかけてくよくよしたいようなところが私にはある。
もしかしたら、いいアイディアが出るのではないか、なんてことを期待しているのだと思う。
ここまで考えても出なかったんだから、しょうがないよね、と思いたいのかもしれない。
だから「そんなこと考えたってしょーがないじゃん、おバカさんだなあ」なんてことを思われずに、一人で考え込みたいときもあるのだ。
役にたたない上に、理解もあんまりされないんだけど…。
悩むのが好きなわけではないんだけど…。
さっさと切り替えて、「今年の冬は何を編もうかな」とか、「今ある材料で何を作ろうかな」とか、楽しい考え事をすることにしよう、そうしよう。
くよくよしても、いいことなんかない。手を動かして、本を読んで、一人でも楽しめるようにしないとね。
外出日
というか、今日のはポエムじゃないな。ただの要望だ。
誰かとお茶が飲みたい…といっても、たいして自分に話があるわけではない。誰かと会って話をする…のはなんだかおっくうなぐらいには、気持ちがあがってない。
こうなると人を誘うのも悪いかな、と思うので、この際だからと思って自力で喫茶店に行ってきた。
一人で飲食店に入るなんて無理!と思う人もいるのは知っているけれども、喫茶店に一人というのは、私は平気だ。
誰か…人が入れてくれた紅茶が飲みたかった。
そしてクーラーが軽くかかった店内で、雰囲気がよくて耳に残らない音楽をそれとなく聞き流しながら、ちょっとだけ外に出た感じを楽しんできた。
冷たいフレーバーティを飲み、「いつもと違うのよ」という感じを味わって、ちょっと電子本を読んで。
いや、別に家で電子本が読めないわけじゃないんだけど…。
家にフレーバーティもあるけどさ…
結局帰りは、慣れたスーパーに寄って、大根やトマトやおくらやキュウリやピーマン、豆腐牛乳食パンにチーズ…などを買い込んで帰ってきた。
家に帰って、やっぱり気を遣わずダラダラしながら本が読めるのがいいな…と思う。
帰ってきて、ほっとした気分というのはとてもいい。
その気分のために出かけているだけなのかもしれない。
外出のための外出。
今日の本は【風に乗ってきたメアリーポピンズ】。外出日が、とても素敵に書かれている。(画像は出版社、岩波書店さんからお借りしました)
外出をすること…。いつもはおんなじことをしているけれども、ちょっといつもと違うことをして、おいしいお茶を飲みにいくのがいい。それが一番ステキに書いてある本だと思う。
この本を置いていない図書館はないはずなのでやっぱり、図書館でお勧めだ。
手仕事
エスニックな料理屋さんで出てきたお水のコップ。
ちょっと不ぞろいの彫りあとをみると、ちょっとうれしくなる。
こういうコップはあんまり高いものではない。
…ということは、これを作っている人の給料も、そんなに高くない。
時々100均とかで見る、手作りっぽいもそう。こんなの、誰が作っているんだろう…給料、安いんだろうなあ…。なんて、作っている人が気の毒になるようなものもある。
それでも、同じ仕事をし続けることで手慣れた技術が刻まれていて、ちょっと見とれてしまう。
私も…何かこういうものが作りたいな…。全然知らない人に使ってもらうようなものが。
職人さんには、あこがれがある。
作ったものを近所のバザーに寄付に出すのが関の山だけれども…。
誰かが、私が去年編んで寄付したネックウォーマーや、帽子を身に着けてくれているといいなあ。
それとこの画像のコップ…とまではいかないけれども、ガラスに絵を彫る「グラスビュール」というののキットを見かけた。
ほしいけど、多分一度やったら気が済みそうだからなあ。多分買わないほうが無難。
いつか、自分の部屋の断捨離が出来たら、買おうかな(野望)!
知らない間に通り過ぎているもの
私が確かまだ、小学校入学ぐらいの頃、保険会社の外交でうちへ来た人が、私にプラスチックの下敷きをくれた。
その下敷きは、裏側が30年ぐらい先まである、カレンダーだった。縦1センチぐらいの高さで、横は12カ月分の月ごとのカレンダーで、カレンダーが2000年から先まであるものだった。
当時は身の回りの年号はどれもこれも19XX年で、昭和50年代、2000という数字もさることながら、このカレンダーが使えなくなるころには自分が30歳代だ、というのは、当時の私にとっては、全然実感のわかないことだった。
遠すぎて、よくわからなかったのだ。その下敷きは、カレンダーを見て、何歳の誕生日は何曜日だ…というようなことを見てみんなで楽しんだものだった。こんな先までのカレンダーを持っている人はとても少なかった。しばらくは「自慢のアイテム」だった。
残念ながらそのカレンダーの期限が切れるずっと前に、私はこのカレンダーを見なくなり、いつしか手元からなくなってしまった。
当時は40代になった自分なんか、もっと想像できなかった。
今は…。早死にするかもしれないが、何事もなければ、多分50代とか60代とかも経験できるんだろうな…とは思う。
でも…その数字が見えていても、全然実感できない。
昔と変わってないってことなんだろうな。体験は、だんだんにしていくもので、あんまり細かく予測するものではないのだろう。
これでいいんだよね、きっと。
心の傷は
昔の、心の傷というのは、消えない。
あの時に…と思い出すことがあったら、痛みがよみがえるような気がすることもある。
でも、確かに、確かにあの時に感じた痛みよりはずっとマシだし、その衝撃は遠くに思えるようになっている。
時間が経つというのは、どんな傷にも有効なのだなあ…と思う。
帝王切開のキズなんか、横幅15センチぐらいある。痛かったし、治るのにとても時間がかかった。でも、今は全然意識に登ってこない。心の傷も、割と同じ感じ。
相手のあることの場合は、その人を許してあげるということが大事だという話も聞くが、ずっと引っかかったままになることもあると私は思う。相手になぜあんなことを、と問いたいこともあるだろうし、その時の自分に、なぜ?と詰め寄りたくなることもあるだろう。でも、もうすべて忘れてしまっていいのだ、という気がする。
ハートに傷のない人は、多分いない。
でも、傷はいつかふさがって、小さくなって…。そしてだんだん平気になっていく。
忘れるって、いいことだ。忘れっぽくなるのも、多分、ある程度はいいことなんだな、と思う。
物語の中に出てくるおばちゃんたちが、明るく朗らかに、そして強く生きているのを読むと、私も年を取ったのだから、こんなふうになりたいな、と思う。
今日の本は、【小さなスプーンおばさん】。こういう感じのおばさんになりたい。
明るく、朗らかで工夫に富み、現状を受け入れて、ある程度は不測の事態にも落ち着いて対処出来る…というのは、なかなかステキではないだろうか。
この本も必ず図書館にあるので、おすすめだ。
明るい色の服を着ること
十代のころから、私はあんまり目立たない色の服を着ていた。白、ベージュ、茶色、紺、カーキ、ワイン色、くすんだオレンジが最高に明るい色というぐらい。それでも若かったらそれなりにかわいいものだ。
今、十代、二十代の人たちを見ていると、どんなに地味にしていても、かわいい年ごろだよなあ、と思う。
そういうのがある程度似あった年齢だっただろうに、赤とか、明るいオレンジとか、きれいな黄緑とか、黄色なんかも、全然着なかった。
子供が生まれてしばらく、子供が小さかったころは、子供が手を適当に私の服で拭いたりとかするし、(ケチャップとか、チョコとか、油とかでも)泥だらけの子供を抱えて帰るというような事態も起きたので、私の服はかなり、褐色系に偏った。
その時期を越えて、好きな色の服をある程度着られるようになったのだけれど…。
黒とか、茶色とか、代わり映えのしない服を着ていると、なんだか、あーあ、って思うのだ。
なんか、変わりばえしないなあ、というのもあるし、気分が暗くなってくるような気もする。
深緑、紺、焦げ茶色…。
焦げ茶色のTシャツに、ジーンズをはいて出かけた散歩で、この木をみかけた。
深緑色の葉っぱの中に浮き上がる朱色のグラデーションを見たとき、ああ、こういうのいいな…。と思った。
ちょっと明るい色のものを着よう。
時々、おばちゃんたちが着ている大きい花柄のものや、奇抜な柄のものは、多分こういう選択基準で選ばれているのではないだろうか。
他の人からどう見えるか…という基準だけではなく、自分の気持ちが明るくなりそうなものを着るのも、考えてもいいなあ。
おばちゃんが、派手なものを着て歩いているのを見たら、若い人はあんまり気にしないでください。
そういう時期が、気分があがらない日が増える時期があるんだってことで、知らんぷりしてくれると助かります、うん。
月見草ホテル
早朝に散歩した公園に咲いていた月見草。
泊まっていた蜂があわてて起き上がって飛び出したように見えた。
この花は、夜に咲くんだよね?実は咲く前を見たことはないし、今開く…というところも見たことはない。早朝にみたことがあるだけなのは、多分夜に私が外出しないからだと思う。
花の中に座っているおやゆび姫の話からの連想だろうか、私は子供の頃、花の中に住みたいと思っていた。
ドラえもんのドラミちゃんがのっているチューリップ型のタイムマシンとか、こえだちゃんと木のおうちというトミーのおもちゃのシリーズにあった、お花のおうちのような感じの建物に住みたいなあ、と。
蜂や、ちょうちょがお花で眠る…なんていう話はアニメだったのかなあ。それともファンタジーな小説だったのか。
バラの花びらをベッドに散らして眠る、なんていうのはマンガかなあ。あ、でもそれはおやゆび姫か。びろうどのようなバラの花びらをベッドに、というのはおやゆび姫にあった気がする。
「月見草ホテル」というフレーズが気に入っただけといえば、それだけなんだけど。
山の中の湖のそばにある、静かなホテルに、泊まりに行きたいな。ホテルじゃなくて、「山荘」っぽいのでもいい。
そういえば、安房直子さんの本に、【べにばらホテルのお客】というのがあったなあ、と思い出した。
調べてみたら、この題名の本はもう絶版。今買えるのは、作者の全集で、そのうちの1冊、「恋人たちの冒険」で読める。(画像は偕成社のサイトからお借りました)
この人のファンタジーは、日本のファンタジー作家の中では特に素晴らしいので、おすすめ。
日常にいたと思ったら、世界がいつの間にかファンタジーの世界に…私たちが知らない世界に切り替わっているその変化が、とてもきれいなのに微妙にぞくっとなるようなところがある。
冒頭だけ読むと、どこかのブログみたいなのだ。私(または僕)、または三人称で、こういう仕事をしているXXさん。
でも、途中で彼らは見たこともないものを見て、あ?と思ったらもうすっかり、不思議な体験をすることになって、気が付いたら戻ってきていたり、戻ってこなかったり(!)するのだ。
ファンタジーというのは、大体設定からして別世界のもの(指輪物語タイプ)と、始点がこの地球上で実在の場所なもの(ハリーポッタータイプ)がある。安房直子さんの書くものはほとんどが日常からスタートするので後者だが、ファンタジーの世界へのつながりがスムーズすぎて、巻き込まれた本人も気付いていない感じになるのがとてもいい。
彼女の書くファンタジーは、異世界とのつなぎ目が全くない。その角を曲がったらもう、不思議なことが起こる世界。
短編がほとんどで、長編は少ないけれども、どれも美しい名作だ。図書館には絶対ある人なので、おすすめ。
大半が児童書扱いになっているけれども、いや…子供向けにしては深すぎるだろう…というものもある。子供の頃は単に楽しいお話だと思っていたけれども、大人になってから読んだら、やけに味わい深かったりする。
教科書に載っている話がいくつかあるので、今読んだら、「ああ、あれってこの人のなのか」ってなることも。
安房直子さんは、亡くなられてもう何年だろう。新作が読めないのが本当に残念。
砂の上の足跡
河原で見つけた。
「世界初」なんていうことは滅多にない。歴史なんていうものが残るようになってからは、史上初、も、今時あんまりないだろうな、とは思う。
昔は新発見が多かっただろうけれども、それを教えて広げていくことで、もっと先へ進んできたのだもの、そうなるよね。
どこでも、なんでも先人たちの足跡がついているということになる。
悩んでいることなんかもそう。10代、20代の頃に悩んでいたことなんか、昔はアドバイスをくれる40代の人なんかがとてもすごい人みたいに見えたものだけれども、多分、今の私なら同じようなアドバイスが出来ると思う。全然すごい人じゃないのにだ。
やっぱり、通り過ぎたからこそ、わかることは多い。
ため息が出るような日常でも、ここはきっと、みんなが通るところなのだ…ということは覚えておこうと思う。
誰もいない荒野みたいに見えても、足跡が残っているのだと。
自分だけじゃないと思うことは、気分が下がりきらないためにも、重要だ。
多分、こんな気分の時も、ただ淡々と過ごしていればそのうちまた、上向いてくるのは経験でわかってるから。
そう言い聞かせて、本なんか読んで。
掃除、洗濯、夕飯の準備。
昼ご飯に食べたチキンラーメンが、おいしくて浮上。
単純だな…。
チキンラーメンは60周年らしい。60年前、私は生まれてなかった。
60年後には、私はもうここにいない。
…そんなもんでいいのかもしれないな。
砂の上の足跡みたいにさらっと、越えていきたい。
散歩の時に
プラプラと、ポケモンGOをお供に散歩していて、ふと漂ってきた匂いに、この木を発見。イチジクだった。
熟れていなくても、結構いい匂いがした。
葉を茂らせて、力をため、花をつけて実がなって、熟すまで…。春の初めから、お盆過ぎ位まで時間がかかることを思えば、数カ月…。 何をするにしても時間がかかる。
まだ寒さの残るころから今までで、出来たことがなにか、あっただろうか。
私は、すぐ結果の出ることが好きだ。
長くても、来週ぐらいには仕上げてしまうような…。でも、半年ぐらいの長期プロジェクトもあってもいいんじゃないだろうか。
あ、でも断捨離は確かに長期プロジェクトか。(ただ、手付かずなだけともいう)掃除は、この春から初めて、いい感じになっているし、少しずつためていくのもいいと思う。
編み物もそうだし、クラフトも、超絶長いシリーズものを読むのも、どれも少しずつ長期間で進めるものだ。
もうちょっと、コツコツと長期間やるものも視野に入れよう…。
途中で投げ出しているものもまた拾えばいいじゃないの、ねえ。
ふと安売りだったから買った、昔読んだ長編シリーズの電子本セット、また読み始めよう。
編みかけでおいてあるマフラー、今年こそ編み上げるぞ。
そうだよね…。使ってくれる人がいなければ近所のバザーに出しちゃったっていいのだ。
編みあがらないと、そういうことをするわけにもいかないからね。
待つ…。少しずつやって、気長に。
すぐ手に入らないのが嫌で投げ出しているものも結構あるので、行動パターンを変えてみるっていうのもありか。
一年かけたら、熟して手に入るぐらいで。
他の人には、焦らないで、待つのだっていいと思うよ、なんていうくせに、自分でやるとなるとなあ。
でもこれも、「新しいことにチャレンジする」になるよね、きっと。
脳の活性化ということでがんばってみる。
マツバボタンの種
実は書こうと思ったことと写真の中身が合っていないのに後から気づいた。
私は、この植物を見たとき、マツバボタンだ、と思ったんだけど、この写真は「マツバギク」らしい。人違いだったのだけど、初心を貫いて、マツバボタンのことを書きたいと思う。
マツバボタンというのは、とても育てやすい花で、実家の庭にもたくさんあった。
その種が、とても小さい。さらさらとした銀色の砂のような…。
直径3、4ミリのさやからこぼれるその種の1つ1つに、来年また、鮮やかなマツバボタンを咲かせる力があるのだ…ということがとても不思議だった。
たとえば、ユリや、チューリップの球根に命が入っているのはとても分かりやすい。大きいし、ヒヤシンスなんか、水だけ入れておけば根が出て葉が出て、花まで咲くのだ。イメージとして花が畳まれてはいっていて、伸びていくような感じが想像できたものだ。
朝顔の種も、分解すると小さな芽の素になる部分がわかったものだし、ヒマワリの種は味だっていいし、栄養たっぷりな感じが命をはぐくむ力を感じさせた。
でも…マツバボタンの種だけは、本当に不思議だった。吹けば飛ぶようなこの種。
ただ、種だけではとても咲かないような気がしたのだ。だとしたら、必要なのは魔法みたいな、見えない力が働いているようなそんな気がして。
だから、私はマツバボタンの種を集めた。
紙で薬のように包んでおくやり方を覚えて、折り紙で包んで、立てて並べて。
魔法。色とりどりの魔法がどこかからやってきて、マツバボタンを咲かせてくれるのだ。
父は毎年、気を付けて花が咲くようにしてくれたのだと思う。私がこの花を好きなのを知っていたはずだ。
鉢植えでも、やってみようか…。多分一番最初にチャレンジするのはマツバボタンにすると思う。
赤い飲み物
この写真を撮って、なんて書こうかな…としばらく考えて文字をいれてからも、誰がこのセリフを言ったのか思い出せなかった。中年も極めるとほんと、忘れっぽくなる。
でも、画像をアップロードする時に思い出した。赤い飲み物はほかのよりもおいしそう…といったのは、【Anne of Green gables】の主人公、アン・シャーリーだ。日本の題名だと「赤毛のアン」。
何度も何度も読んだ。日本語版も英語版も読んだ。でも毎回、そうだよね…と思えて、アンがお友達みたいに思えてきてしまうそんな本だ。
アンと同じ年ごろの頃から読んで、中年になった今はさすがに十代のころのような感動はないが、ちょっとしたことに気づいて、そこに幸せを覚える…かわいいものや、きれいな景色や、ちょっとした思い付きや、自分で考え出した言葉やなにかに、「いいね」と思って暮らしているアンは、見ていて幸せになる人物だと思う。
私も。そう思って共感すれば、自分の生活も捨てたものではない…と思えてくるところがいい。
なんせアンは当時の習慣でいうと当たり前のように専業主婦なのだ。手作業、料理、家事。海外旅行にも出ず、島からも出ないぐらいの狭い範囲で暮らしていても、文学に親しみ、想像力の翼で遠くまで飛んでいるアンをうらやましいと思う。
赤い飲み物…ちなみにこれは、ベリーソーダ。
そうだね。赤くてきれいで、確かにおいしい。
アンを思い出すと幸せを一粒、一緒に飲み込んだような気がした。
猫じゃらし
市役所の前には、花壇が整えられている。
いつもきれいなので写真を撮らせてもらったりしている。
実家の庭に昔あった植物をのぞけば、それほど知っている植物があるわけでもないので、何が生えていても、栽培するようなものではない雑草が生えていてもわからないといえばわからないのだが、一本だけ、猫じゃらしをみかけた。
確か、本名は「エノコログサ」というのだっけ。きれいな花が生えている花壇の横でなんとなく違和感があったので気づいた。
この草は、懐かしい。これはどこに生えていても、摘んでも文句を言われない草だということは割と小さいころ覚えた。
ちょっと頭のほうが重いので、この草を手に持って、ぷらんぷらんと揺れる感じを楽しみながら歩くのだ。
この穂の部分だけをちぎって、茎にくっついていた方を上にしてこぶしの中に握り、軽く握ったり離したりすると毛虫のように手の中から這い出す…なんていう遊びもあった。昔の子供はとーっても暇だったのだ。
男子だと、ちょっと茶色っぽくなったようなこの草の穂を、「毛虫だーっ」と女の子にぶつける…というようなこともしていた。
大体の女子は毛虫は嫌いなので、きゃあきゃあ逃げ回る子が多かった。それに、たまに毛虫じゃなくても、本物の虫を混ぜるというような嫌なトリックを使う男子もいたので、本物じゃないじゃないか…と高をくくったままにはしておけない遊びだった。
これは「猫じゃらし」とよばれているだけあって、ネコと遊ぶのに使う人もいた。今はこの形のおもちゃが売られているけれども、昔は本物を持って行って遊んだ。
多分…猫との最初の思い出はこれだと思う。
多分、猫と私が遊ぶ…のではなく、猫が私と遊んでくれたとしか表現できないぐらい、幼いころに、私はふさふさした、とても大きな猫じゃらしをもって、猫のところへ行った。どこの猫だかも覚えていない。でも、大きくて、どーんとした猫で、小さな私は、「この猫は、大人なのだ」と思っていたと思う。
猫は、しょーがないな…遊んでやるか…という感じで、ちょいちょいと猫じゃらしに構って、そのあと興が乗ったのか、かなり本格的な目をして、狙いを定めて、びしっ!と猫じゃらしをとらえた。
私はとてもそれが怖かったのだ。
猫じゃらしを放り出して涙ぐんだ私を見て、その猫は、ちょっと困っていた。
真相はどうだったのか、今となっては謎だが、私は多分、そのあと涙を拭いて、帰ったのだろう。
猫じゃらしの姿は変わらず…。懐かしい昔なじみに声をかけられたような気がした。
涼しい服
ベランダで、月を眺めながら撮った。
スマホによっては、こういう夜間の写真がきれいに撮れるものもあるというけれども、これはなんとなく天体だということがわかる程度?
最近は、夕方になってもそれほど涼しくならない。もちろん日中が38度なんて温度だということを思えば、33度は涼しい…のかもしれないが、十分暑い。
夜になっても、エアコンの室外機があるから、うちのベランダは温風たっぷりだ。
布団がふかふかに乾くのはいいけれども、夕涼みなんて、もう、別世界の話だなあ。
最近、とても涼しい服を買った。
どんな服か…というと、胸当て付きのエプロンが、肩のところで2枚つながった形をしている。
背中側の左右の紐をおなかのまえで結び、おなかの側の左右にくっついている紐を後ろで結ぶと完成。
かたちとしてはワンピースだけれど、貫頭衣で脇が縫われていないワンピース、というわけだ。
インドのものらしいけれど、縫われていないから風がよく通って、いい感じだ。
ただ…外に出るのはちょっと、ためらわれる格好ではある。
膝ぐらいまであるので、チュニックとして着て、下にパンツを履いたら、ありかなあ…。。
1500円ぐらいだったので、お小遣いで。
涼しそうな服だねえ、と夫に言われた。
彼はトランクス一丁の時もあるからなあ。そういう格好が一番涼しいんだろうけどさすがに女性はそういう格好になるわけにもいかないので、多分、このワンピースが最低限のカバー率だろう。
あ、でも背中側だけならもっと開いたのもあるか。
作ったの?と聞かれた。 なるほど、そういう風に見えるのか…。
多分構造としては簡単だから作れるとは思うけど、布代のことを考えると、多分1500円では無理な感じ。
ふと思いついた。洗濯して、脱水した状態で、乾かさずに着て、扇風機に当たったら涼しいかな?
気温が33度だったら、濡れたまま着て、洗濯物を干している間に乾いてしまいそうだけど。
白いハンカチ
いつ撮ったのか覚えていない写真が出てきた。
多分、雨が多い初夏のものだったと思う。
花なのか、がくの部分なのか?みたいな形で、街を歩いていてどこかの庭のものを撮ったはずだ。
「あ、ハンカチが雨にぬれてる」と思って撮った。
ひらひらと雨粒があたるとゆれる白い花びらが、風にはためくハンカチのようだった。
白いハンカチを使わなくなって、何年経つだろう。
私は、オルコットの【若草物語】が好きだった。
どんな時も、淑女たるものは、ハンカチ(それも白いの)を持っているものだ、という話は、多分この、若草物語のお母さんが教えてくれたことだったはずだ。
ハンカチというのは、100均がなかった頃は結構高かったものだ。100円でなんてめったに買えなかった。350円から、500円ぐらい出さなくてはならなかったのではないだろうか。
私は中高生だった当時、お金をあまり持っていなかった。
そんなわけで…白い、木綿の布を買い、それを45センチ角に切り(布幅が90センチのが多かったから)端を三つ折りにしてかがって、刺繍でワンポイントをいれて、ハンカチにしていた。
若草物語のベスや、エイミーも、そういうハンカチを作っているのだから、ってね。
500円で大判のハンカチ4枚になるのだから、断然安かった。30センチ角のハンカチでよければ、1mあれば9枚。断然お得というものだ。
お年玉で1000円出せたときは、確かちょっと上等の薄手の布を使って作った覚えもある。
縁取り、縫い取り、刺繍…。今考えたら暇だったとしか言えないけれど…。
あの頃のハンカチは、今主流のハンドタオルと違って、一度手を拭いたらもう、かなり濡れてしまうものだった。予備も持っていた覚えがある。
そういえば、社会人になって、お金が使えるようになった時には、夏は麻のハンカチを作ったこともあった。
あれは、またやってもいいかな…。(アイロンかけが面倒だけど)
小さな布一枚だけど花や、小鳥や、果物や…きれいな模様がついていて、レースなんかついていて、とてもフェミニンなものもあった。服を選ぶように、好みのものを選んでいた人もいた。
服はあんまりひらひらしたものは着ないから、無理だけど、ハンカチなら…。
なんとなく、きれいなものを所有したい気持ちがわいてきた。
刺繍を、またやろうかなあ。買うのではなくて、手で。
元気が出ない時の幸せ
なんとなく、元気が出なかったり、過去にあった悲しいことを思い出してまた、悲しくなり直したり。理由もなく(体調とかあるのかもしれないけど、気づいていない)調子が悪い日がある。
今、遊んでいるガーデンスケープというゲームは、パズルをクリアするとポイントがたまり、そのポイントを使って作業をゲーム内の執事、オースティンがやると、庭がだんだんきれいになっていく、ということになっている。
私が調子よくパズルをクリアしていくとほめてくれるし、うまくいかないとこんなことを言う。
「Don't worry, Mako, it's the darkest before dawn」
気にするなよ、夜明け前が一番暗いんだから。と直訳するとこうだろうか。
つまり、物事がよくなる前が一番暗いのだ、というか、今はうまくいかなくて落ち込んでも、すぐに事態はよくなりますよ、という慰めの言葉ということで。
オースティンは、ゲームの中のキャラクターで、パズルがクリアできなかった時に出すセリフのリストの中から、ひとつをランダムに選んで出しているのに過ぎない。
でも…なんとなく、落ち込んだ気持ちがなぐさめられた気がした。
本当は…友達とか、知り合いとか、家族とかに、こういう言葉をかけてもらうのが一番いいのだと思う。
大丈夫だよ、きっとまた、気分がよくなるからね、今はつらいかもしれないけど、続かないよ、と。
でも…友達があんまり多くないということもあるし、本当に気分が落ち込んだりすることには、はっきりわかる理由も今はないのだ。ただ、単に…なんとなく、気分が落ち込む。多分更年期が近いとか、ホルモンのバランスがなんとか、とかクーラーかけて寝た後で体調が悪いとか、なんでもいい、多分目には見えない理由があるのかもしれないが、そんなことを打ち明けられたとしたって、その人に何が言えるだろう。
ぱっと、ちょうどいいセリフを出す、なんていう芸当は、誰にでもできるわけではない。少なくとも私には無理だ。
だったら…私は実のところ、毎日このオースティンに会う。ゲームも今じゃもう、350面を突破した。
彼が庭を整備したり、飼い犬と遊んだり、ペンキを塗ったり、SNSに投稿しているスレッドまで読めたりして…毎日顔を見て、なんとなくかけられたセリフに心温まる思いをして何も損することはない。
大丈夫…また、心が軽くなる日が来るのだ。今日は調子が悪いけど。
他の人は、どうしているのだろう、優しい言葉がかけてほしくなった時には。
魔法の鏡がほしいな。
アドバイスが聞ける魔法の鏡が。
「今日は、気分が上がらないんだけど、何か元気の出そうなものが売っているところはある?」
「あなたのラッキーアイテムは、黄色いバッグ。駅前の雑貨屋さんにありますよ」
…なんて、教えてくれるの。
占いってあんまり信じたことないけど、こういう時には、役に立つのかもな、とふと思った。
「この一週間は、あんまり運気がよくありませんが、来週からは上昇運です、体調を崩さないようにしましょう」なんていう占いがあったら、「今週は、これでしょうがないな、帰って寝よう」とか、あきらめがつくとかそういう感じで。
四葉のクローバーが、きっとどこかで風に揺れている。誰にも、見つからずに。
一本分でいいですから、うちへ来てください。歓迎しますよ。
そう思って、この写真を撮った。
くちなしの花
クチナシの花を最初にみたのは、いつだっただろう。
この花を私が最初に見たとき、私は、母と、姉と一緒に歩いていたと思う。
「茶色く枯れても、まだこんなに、匂いだけ強くて、なんだかいやらしい花ね、私は嫌いよ」
母はそういった。
この花はだから、いろいろな花が咲いているうちの庭にもなく、祖母の家にもなく、飾られていたこともない花だった。
この花は、見るより先に香りが聞こえる花だ。
あ、近くにある。そう思って見回すと見つかる感じだ。
母は、嫌いだと言っていたけれども、私はこのクリーム色がかった白い花が、嫌いではない…と思う。
目には見えない存在感を主張するクチナシの香りの甘さがエキゾチックで、振り向いたときに明るい夏の緑とのコントラストに、目を奪われる。
サマードレスの、お姉さんのようだ、と子供の頃は思っていた。それも飛び切りの美人で、白いドレスに、緑のリボンのついた、麦わら帽子をかぶった、そんなお姉さんだ。
かごバッグを持っていて、通り過ぎるとき、いい匂いがする。
そんな大人に、いつかなりたかった。
原因はひとつ
例えば細かいところの掃除とか、片付けとか、断捨離とか。
ちょっと凝った料理とか…そういうことをなかなかやらない。
結局なぜやらないかというと、「できないから」というよりは、能力的には可能でも、面倒だから…という理由がとても多い気がする。
出来ないしない、そういうことはいっぱいある。例えばお風呂の排水口の掃除なんかひと月に1回やるかどうか。多分もっと頻度が上がれば、汚れのたまり方もそれほどではないだろうから、楽に掃除できるだろうし、服の入れ替えも、もっと早めにやっておけばよかったかも…と思わないでもない。
作りかけのビーズアクセサリや、編みかけのマフラーや、途中まで遊んだゲームやら…なんとなく手がつかない。
色々なことがいっぱい、途中だったり手付かずだったりするけど、結局根っこのところは一つ。面倒だから。
(これが今日の当たり前ポエムにつながってくるんだけど)
これって、簡単に説明が出来る言葉だからついつい、使っちゃうけど、どれもこれも手付かずなのもよくない気がするなあ。
まあ、裏を返せば面倒だろうとなんだろうと、始めてしまえばそれなりに出来そうな気もする。わさわさ、もさもさ生い茂った蔦も、結局もとのところは1本なように…。大きく見える問題も、たった一つの原因を取り除けば、それで解決する…という前向きな表現方法もあるわけだ。
ここはやっぱり、前向きにいっとくべきであろう。
いつも朝に自動更新しているのに、記事を書くとき時間を設定するのを忘れたらしく、今日の更新が午後になっていたらしい。心配してくださった方、ありがとうございます。つまり、これは「ただのうっかり」です。ごめんなさい。
隣の芝生は青い
こうやってお花が一面に咲いている場所の写真を撮ると思い出すのは、子供の頃のこと。
田舎には、「れんげ畑」というものがあった。背の低いれんげ草は、赤紫の花がかわいくて、すきこんで肥料にする草だということだったけれど、小さい女の子にとってはうれしいおもちゃだった。
近所のおじさんおばさんたちも、子供がれんげ畑に入って摘んでも、何も言わなかった。
茎をなるべく長くなるように取り、首飾りや、花かんむりを編む。今考えるとそのアナログなことといい、時間のかかることといい…。昔の子供はかなり暇だったとしかいいようがない。
なるべくきれいな花かんむりや、腕輪や、ネックレスを作ろう。そう思って作るわけだから、お花は選んで、ちょっとしなびたのじゃなくて、一番鮮やかで、美しいのがいい…。これよりも、もっときれいなのを。
あっちに咲いているのがもっときれいに見える。
そう思って歩いては摘み、摘んでは歩いて、ふと元来た方を振り返ると、今度は足もとのまばらな花より、前にいたあたりがぎっしり詰まっていて、余計に美しく見える。
そんなわけでまた、回れ右して、あっちを見てはきょろきょろ摘み、茎をからませては、次のひとつを探して…。
いつだって、一番きれいな花は一番遠くに咲いていた。
タンポポ、シロツメクサ、レンゲ。みんなそうだったなあ…。
*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…
隣の芝生は青く見えるというけれども、どうして同じようなことをしていても、すてきに見える人がいるんだろう。
そう思うときがある。
うらやましいな…。
でも、結局のところ、自分の足元に咲いている花と、遠くに咲いている花にはそれほど違いがないのかもしれない。
ただ、遠くにあるから美しく見えるだけなのかも。レンゲやたんぽぽみたいに。
近所のスーパーで
今日のこの写真は近所のスーパーで撮った。
意識しなければ通り過ぎてしまうような通路の奥まったところに、ひっそりとある、薄暗い非常口。
このスーパーが建ってから何年も何年も、もしかしたら一度も使われないまま閉店するかもしれないけど、ここにあるんだなあ。
使わなくても、用意しておくものというのはある。
例えば、裁縫箱にある、白と黒の木綿糸なんて、最後まで使い切ったことは…今まで生きてきて、多分1回ぐらいしかないけど、(それも白だけ)でも、絶対入っている。
バッグに入っている予備のティッシュなんて、えーっと…多分買ったのは5、6年前だ(大丈夫なのかそれ)。
6個ある、コップ(全部同じもの)のうち、奥の方に押し込まれた2つぐらいとか、工具箱の中のドライバーの中途半端なサイズのとか。割と、使わなくても用意してあるものってある。
非常時に。例えば、災害とか、誰か、近しい人が亡くなったときとか、子供がけがをしたときとか…には、しょーがないのでそこでなんとか踏ん張って、普段と違うことをやることになる。
普段はそんな力、使わないけど、非常口と同じようにどこかにひっそりと、おいておかなくてはならない。
この非常口の人のように…私はちゃんと飛び出せるだろうか。腹をくくって、勇気をもって。
非常口の手前の休憩コーナーでコーラなんか飲みながら、考えた日だった。
駆け落ち
この写真は渡米中に撮った。
アメリカは、湿気が少ないからだろうか、角砂糖なんか、厚紙の箱にこういう風に入っている。
日本の角砂糖は、ビニール袋に入って封をされて販売されているのが普通なんだけど、このアメリカのパッケージはなんとなく「むきだし」感がする。
きっちりとルール通りに全員が暮らしている場所から、二人だけの逃避行。
端から取りづらいので真ん中から角砂糖を抜いて、紅茶に入れた夫が、「見て、駆け落ち」と見せてくれて、ふきだしたのがこの写真を撮った時だった。
だからこれは実は夫作のポエムと言っていい。
誰か…とても大好きな人と二人っきりでどこかへ。
角砂糖の箱にこんなロマンスが隠れていたなんて。
店の名前とか
旅行先で、街を歩いていると人の名前の付いた店が結構ある。
レストランだったり、パン屋さんだったりする。きっと自分の腕前に自信があるのだろう。
日本でも、「山田太郎商会」みたいな名前のお店は、職人さんの技、みたいなお店が多い。
このレモネード、おいしかった。ラズベリー味もあった。
でも、違う街にいったら、同じ国だったのに見かけなかった。ローカル商品だったのか。
チャーリーさんが誰だか知らないけど…。おいしかったですよ、と感想を言いたい。
これって、スーパーに売ってる、産地直送野菜と同じだよね。顔写真が入っていて、私が作りました、って書いてあるやつ。
*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…
最近、梅雨も明けて暑くなった。水分補給は気を付けたほうがいい感じ。家の中で熱中症になる人も熱中症になる人の3割ぐらいはいる、ということだ。無理もない、この部屋の温度は32度、33度とかに平気でなる。マンションは「全戸南向き」とかで売り出しているのも多いし、そういうのが人気があるんだろうけど…夏の暑さは広告には出ないからね…。もちろん、北向きで、冬は日当たりが悪く、梅雨は湿気がたまりやすく、薄暗くて寒い部屋…というのもそりゃいやだけど。
この部屋は冬は暖房なしでも暖かいから、そこは文句は言えないなあ。
水分補給も、冷たいものをがぶがぶ飲むのはダメとか、塩分が足してあるものを飲むときは塩分摂りすぎにならないようにとか、いろいろ注意があって、全部考えるのも大変。冷たい炭酸っておいしいんだよねえ…部屋が32度の時は。
しょーがないので、水に麦茶パックいれただけじゃなくて、煮だした麦茶を作成して、ぬるい麦茶を飲むことにしてみた。
ネットの記事を全部信じるのも、なんだとはおもうし、考えすぎはよくないと思うけど、麦茶の飲みすぎで気分が悪くなった人…というのも聞かないし、体に悪い成分が入っていないのは数百年の歴史で判明済みだし、温度がぬるいか、室温ぐらいまでならまあいいでしょう、ということで。
時々、つめたーい飲み物をのんで、しょっちゅう飲むのは室温の麦茶で。
なんとか夏を乗り切ろうと思う。
そういうことになっている
もちろん、どこまでも、とは言わない。海とか…。山とか…森とか。どこかに行き止まりはあるのだろう。
案外見切り発車ということはあるように思う。
まず、走り出す。道は今のところ途切れてはいない、ということは…
きっともうちょっとは、走れるはずなのだ。
道が切れちゃったら、戻るとか、曲がるとか、探すとか…何か考えればいい。
でも、それをするのは今ではない。
そんなことを考えもせず、ただ、走っている。
重力はあるから…。注意して立ち止まることさえ忘れなければ、地面が足の下から、なくなることはない。
地球に生まれたときから、多分、そう思って生きているのだ、みんな。
心配し続けるより、多分そっちのほうがいい。