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毎日更新!LuckyDuckyDiary

いらっしゃいませ。毎朝6時には更新します。さっくり読んでいってください。コメントくださった方はリンクさせてください、相互リンク歓迎、リンクがダメな方は連絡お願いします。

チポリーノの冒険

図書館で本を選んでいる時にちょっと題名が目に入ったのがこれ見られない場合は画像のリンク切れです【チポリーノの冒険】。頭に歌が思い浮かんだ。
♪タマネギのにおいがきらいな奴は、レモーンたいこう トマト騎士♪
 えー?歌。♪チッポリーノ、チポリーノ、ぼーくーのなーかーまーー♪
……頭の中で歌えてしまった。
しまったけれども、物語の中身が全然思い浮かばないのが不思議だ。

 これは多分小学校の全校集会で歌ったことがある感じがする。学年ごとに違う音楽の教科書ではなく、全校生に配られていたいろいろな歌を集めた小型の愛唱歌集に載っていたのだろう。
 子どものころに読んだことがある本を割と「大体こんな感じ」と覚えていることが多いのだが(その割に大人になってから読んだ本はそれほど覚えていなかったりするけど)、これに関しては全く記憶が残っていない。サクランボ坊やがいたのと、チポリーノのお母さんは出てこなくて、お父さんを助けに行く話だったぐらいの情報は頭の中に出たが、あまりにも情報が少なすぎ。

 しょうがない、読めばわかるだろうというわけで借りて読んでみた。

 見事なまでに全く記憶もどらなかった。ということはこれは「未読」なんだろうなあ。岩波少年文庫はかなりの数読んだはずなので、なぜこれが未読なのかは謎。私は小学校の図書館をかなり網羅して読んだはずだし、岩波少年文庫=スタンダードで有名なことが多いし、1960年から1980年の蔵書が多かったはずの小学校の図書館になかったとも思えないのだけれど。

 ちなみに中身は、かなり風刺が効いていて、小学生では深い意味がわからなかっただろうなあという本だった。
 「ネズナイカの冒険」とか「ムーミンシリーズ」と似た香りのする本で、大人の読者もある程度想定してあるというか、「子供の読み物のふりをして出版したけど」みたいな本。もしかしたらソ連か、ポーランドか、共産圏の本じゃあ…と思わせる感じだと思って調べてみたら、ナチスのレジスタンスにいた人だった。ソ連でも人気のある本だったらしい。ちなみに作者の【ジャンニ・ロダーリ】さんは、イタリア出身だった。



 まず貴族制度が現代に残っていない日本の田舎町ではちょっとわかりにくい権力構造に立ち向かう話だったので単に記憶が残らなかっただけなのかもしれない。今のファンタジー系の話や幼年童話を読みなれていたら、なんとなくこの粗削りな洗練されない感じというか、子供の共感を呼ぶところが少な目というか…大体「児童文学」というものがたくさんはなかった時代の物なのがわかる感じで今の日本の子どもにはあんまりウケない感じが。舞台が狭いのもちょっと問題?

 でも正直いかにも感動しろ、泣きどころはここだ、と言わんばかりの長大なストーリーではないところが好感の持てるストーリーではある。ムーミンのシリーズとの共通点はそこだと思う。彼らなりの冒険とものの考え方というものがあるのだとわかる感じ。

 私たちが生きていく上で必要な心の持ちようであるとか、身の回りにいる人を観察する力であるとか…といったようなものが書かれている本で、「ああ、いるいるこんなやつ」と思いながら読んだら割と面白い本だった。

 ちなみに私はどうも、これの「紙芝居」を見たことがあるっぽい。日本で知名度が高いのは、ちょっと年代はさかのぼるが、「チロリン村とくるみの木」というシリーズもののテレビの人形劇の原作がこれだかららしい。ウィキペディアによると812回分も制作されたそうだから、これは見た人もずいぶん多かったのだろう。
 
 まだまだ読んでいない本がいっぱいある。やっぱり映画や映像作品と違って、文章で書かれたものは今までの積み重ね分もいっぱいあるから「コンテンツが切れない」ところがいい。私が子供の本の新作をあんまり読んでいないということを含めると、私が小学生だったころから30年以上増えているのだと思うと、これは多分一生かかっても読めないんだから、楽しみと言えば楽しみだ。
 
 ただ、とっかかりのなさもあるので、まずは見覚えのある題名からかな、ということで今回はこれだった。
 おすすめか…と言われると、今回はそれほどでもない。
 ムーミンのシリーズか、ネズナイカが好きなら、またはチロリン村とクルミの木が好きならおすすめ、といったところだろう。

車の色は空の色

私が子供のころ教科書に載っていた見られない場合は画像のリンク切れです【車のいろは空のいろ『白いぼうし』】
 かなりの知名度の高さを誇る物語で、多分ブログを読んでいる人の中にも、「ああ、あれな」と思い出す人は多いと思う。

 私は割とファンタジー小説が好きだったり児童文学が好きだったりするのだけれども、この本はなぜか読んだことがなかった。
 多分だけれども、教科書でこのお話を「読みすぎた」のが原因ではなかろうか…と思う。

 私が小学生だったころは、「音読の宿題」があった。それも10回声に出して読んで来いというような回数の多いもの。たまには5回もあったような気がするが、大抵10回だった。 
 テキトウに飛ばせばいいものを、真面目だった私はつまり家で10回音読をやったわけだ。学校でその単元が終わるまで毎日そういう宿題が出た。
 どんな感動の物語でも飽き飽きすること間違いなし。

 ちなみに今20代の姪の宿題の音読回数は1回から3回が多かった。近所に住んでいて音読を聞いてサインをする役をしたことがあるので知っている。最近は3回でいいのか、楽勝だな、と思ったのだがこれでも十分姪にはつらかったようだ。
 息子の音読回数は1回だけ。それも全体ではなくてこの部分を読んで来い、というような細切れの設定が多かったので、逆に「そんなので大丈夫なの?」と思ったことがあるぐらい減っていた。

 多分「繰り返し全体を音読させる」ことには国語力増強の効果はないということが実証されて、現在ではそういう宿題はださないことになったのだろう。
 
 強制的にこれを100回以上宿題で音読した当時の私はこの「白いぼうし」がとても面白かった……とは思っていなかった。
 「夏ミカンをちょうちょの代わりにいれておく」のはどうなったのかは理解できていたはずだが、その時タクシーに乗ってきたお客さんがそのちょうちょで、というのを「こういう話って、こども用っぽすぎる」と思っていたのだった。

 最近、私はこれが「シリーズもの」だということを知った。本にして3冊、今のところ22編あるらしい。
 えー。それは初耳。私が使っていた図書館にも、少なくとも最初の1冊は(年代からいっても)あったはずだが、多分「教科書で読んだあれか、もういいや」と思って読まなかったのか?それとも「こどもっぽすぎる」と思ってスルーした中に入っていたのか…。
 
 小学校2年生の教科書に入るぐらい、1つ1つは短いお話なので、図書館で借りて読んだが一瞬だった。

 かなり面白かった。っていうか、一番つまんないのが「白いぼうし」だと思う。なぜだ。なぜ「くましんし」とか「山ねこ おことわり」の方にしなかったんだ!まあ「つまらない」というのには語弊があるかもしれないが、「白いぼうし」はなんていうか、インパクトが薄めで、印象派の絵画みたいなのだ。
 遠くの景色がなんとなくいい感じに見えてはいるんだけど、近くに寄ってしげしげと見るタイプの絵ではない感じというか。

 続編、そして最新刊にあたる3巻目の収録作品はどれもかなり面白い。
 どんな感じかというと、写実的ではないぬいぐるみみたいな感じ。
 シルエットだけ写してみたらどの動物だか全くわからないような感じに見える、色を見たら自然にはあり得ない色のぬいぐるみで、しかし一点突破でかわいさ満点、こういうのを考える人がすごいよね、どうしてこんなに愛くるしいんだろう、本物とは全然違うのに!と手のひらにそっと乗せて、愛でたいような、ころんとしたマスコットやぬいぐるみ。

 子どもが手に取って、素直になじめて可愛がれる、そういうぬいぐるみは、大人にだってもちろんかわいいのだけれど。
 
 子供向けなのがわかるのだけれど、いやー、よく出来てる。そういう物語。日常が時々ファンタジーと重なりあうその瞬間を切り取ったこの本の物語は、安房直子さんとか立原えりかさんとか柏葉幸子さんとか、ああいう国産ファンタジー系の作家さんと共通項がある。安房直子さんはもうちょっと【ぞくっとするような大人向けのファンタジー】を書いているし、柏葉幸子さんは【もうちょっと想定読者年齢が上のもの】を書いているし、【立原えりかさんの初期のメルヘン】あたりはどう考えてもところどころのシニカルさが大人向けだけれど、それをぐぐっと子供向けにしたのがこれ、といっていい。

 子ども…本物の、小さなこどもだった、6、7歳の頃は、私はこういう本の本当の面白さがわかっていなかった。ファンタジー世界にまだ片足を突っ込んだままの年齢の時には、現実世界の理解度も片足分しかない。だから現実とファンタジーの世界の邂逅が美しいということが…滅多にない素晴らしい話だということがピンとこない。

 例えば電車で隣に座った人の正体が、森のくまだったりするというようなことも「そんなこともあるのかもしれないねえ」ぐらいのノリなのだ。妖精だって「見たことないけど、いるところにはいるんだろうな」とか、そういう感じで、「そんな当たり前っぽいことが書いてある話」は、日常を描いた「ズッコケ3人組」と同列に読めてしまう。

 ファンタジーな世界は現実と全く切り離されたところにあるとわかって初めて、こういうファンタジー世界と現実が重なる瞬間に居合わせるの主人公の体験を追うことが楽しく、すばらしく思えて、こういう物語が好きになる。
 そういう意味では、当時7歳の私にはそれほど楽しめない、「ただの教科書の中の話」になってしまったのも無理のないことなのかもしれない。

 もっと早く読んでおけばよかったなあ。「子どものころ大好きだった本」になったかもしれないのに。
いや、でも大人になってからでも読んでおけてよかったのかもしれない。
 
こういうことがあるから、やっぱり児童書を読むのはやめられない。
 


ローンのハンカチーフ

子どもの頃に【若草物語】では、淑女たるもの、家を出るときには必ずハンカチーフを持っていくものだ、というようなことが書いてあった。
 ローンの薄いハンカチーフは上等だとか、向こうが透けて見えるようなのに、刺繍をしたハンカチが上品で素敵だとか、ハンカチは白に限るとか、赤毛のアンも、大草原の小さな家のローラも、大体そういう感じだった。

 幼稚園の頃や小学生のころの私はといえば、誕生日プレゼントに友達がくれたサンリオのハンカチを大事にしていた。
柄がかわいいハンカチを持っているというのは「いいこと」とされていた。30センチ四方ぐらいだっただろうか、小さいそれはトイレにいって手を一度拭いたら、2度目はあんまり水分が取れてくれない、そういうハンカチだった。
 サンリオのハンカチでないなら、もうあとは「ガーゼのハンカチ」であって、大体おばさんとか、おばあちゃんとかがくれるそれは、レースの縁取りが編みつけてあった。
 今から考えると大変に手間のかかった作品だったのだが、白いハンカチに薄黄色から山吹色の段染めのレースとか、プラムのような紫から、ショッキングピンクの段染めのレースだとかが多かった。緑のグラデーションのもあったと思うが、にっこりわらってありがとうございます、と受け取るしかなかったそのハンカチはあんまりありがたがられなかった。

 なぜ単色のレースではなく、毎回段染めだったんだ…。そこもちょっと疑問だ。一緒にキューピー人形なんかも家に来たりして、そのキューピーさんのドレスがまた、段染めのレース編み。キューピーのドレスを編んで残った分がこう、ハンカチの縁になっていた感じ。ご丁寧にも、お揃いでティッシュケースの入り口のところにレースが付いたのもあった気が…。
 せめて白か、クリーム色か、薄い色の単色ならまだかわいかったのでは……と思うのだが、編んでもらう前にリクエストするほどはほしくなかった。本体に柄のないガーゼのハンカチというのは基本「かわいくない」扱いだったからね。

 今ならわかる。あれは、「編むのが楽しい」手芸なのだ。自分で使う分だけじゃなくて、いくつも編みたくなってしまうタイプ。確かに手間がかかるものだが、編む面積が小さいのがミソか。
 そんなわけで私は、ガーゼのなんかじゃない、「ローンのハンカチーフ」にずっとあこがれがあった。
 高校生ぐらいになったとき、もうサンリオのなんか使わない年齢で、当時はまだ、ハンドタオルはポピュラーではなかった。
 
 ブランド物のハンカチなんか持っている子が多かったのだが、私は金欠だった。そのころぐらいか、コットンの布でハンカチを作り始めたのは。縁を三つ折りにしたコットンの白い布に刺繍をちょっとして持ち歩いていた。
 
 割と気にいっていたのだが、残念、近所の小さい手芸屋さんには「薄手のローン」なんていうものはおいていなかった。ごく当たり前の木綿の平織り布で作るハンカチというのは、ローンのハンカチより水分を吸うかもしれないが、厚いもので、デパートで「綿ローンハンカチーフ」などを見たときはその向こうが透けるほどの薄さに、「こういう布地って、どこにあるんだろう?」とおもったものだった。

 一応「白い大判ハンカチ」が冠婚葬祭用にお店にあるのは知っていたが、大抵織り柄で線が入っているのが多かった。これは「無地」じゃない!と私は思っていたのだ。
 
 今回見つけたのは【福市祐徳堂】という学校教材も卸している会社の白いハンカチ。白い木綿のキャンブリックのハンカチ(サンリオのハンカチの、色柄のないもの)とか、ローンのハンカチ各種サイズ、サテンのハンカチ、麻のハンカチ各サイズ。特にコットンは品ぞろえがよくて、20センチ角ぐらいの、小さい幼稚園児用?みたいなのから、35センチ、43センチ、53センチぐらいまでずらっとそろっていて、一番大きいのは110センチ…ってさすがにこれは風呂敷で、ハンカチじゃないけど。

 「お絵描きハンカチ」といって売っているものが多く、多分布用絵具で絵を描く図工とか、草木染とかろうけつ染めとかをやる家庭科の授業に使うのとか、そういう用途もあるのだろう。

 ローンの43センチ角ハンカチ5枚で1760円。うーむ、微妙な値段だ…と思ったけど購入。
 刺繍しよう。しかしここまで薄いと三つ折りがうまくミシンで縫えなかったかもしれないので買って正解だと思う。

 「刺繍したローンのハンカチーフ」とか「レースの縁取りのローンハンカチーフ」とか、そういうのにするんだ!
 なんとなくうれしい。
 

kindleで懐かしい児童書を読む

 昔大事にしていた講談社の文庫本に見られない場合は画像のリンク切れです【グリックの冒険】と、「冒険者たち」「ガンバとカワウソの冒険」があった。電子化していたので購入。アニメの「ガンバの大冒険」とはだいぶ趣が違うので注意。図書館には絶対あるんだけど…。たまに読みたくなる。



 大草原の小さな家のシリーズで、日本で一番ポピュラーなのは福音館の5冊セット。
 大きな森の小さな家
 大草原の小さな家
 プラム・クリークの土手で
 シルバークリークの岸辺で
 農場の少年
 この5冊。

これはまだ電子化していないので残念。でも、そのあとの見られない場合は画像のリンク切れです【ローラがもうちょっと大きくなった時の残りの4冊】は岩波少年文庫版で電子化している。
1:長い冬
2:大草原の小さな町
3:この楽しき日々
4:さいしょの四年間
 今でも、福音館書店の本が一番ポピュラーだと思うけれど、その本の訳と、岩波少年文庫版の訳は昔ちょっと、違和感があった。岩波書店のほうでは頭の5巻は作っていないので、福音館の方をどうしても読むことになるのだけれども、福音館の版ではローラは父親を「とうさん」、母親を「かあさん」と呼んでいた。
 昔の岩波少年文庫では、「大草原の小さな町」では、ローラは父親を「父ちゃん」「母ちゃん」と呼んでいた。
 これが違和感があるんだな!ちなみに英語では「Pa」「Ma」だった。ニュアンス的には「とうちゃん、かあちゃん」で合っていると思うけれども、最初に読んだのとずれるので気になることったら。それもあって、私はこの物語がかなり好きだったのだが岩波少年文庫のこの4冊を買っていなかった。

 何年前かな…この本が改版した時に、改訳もされていて、「父さん」「母さん」呼びになっていることが分かったときはうれしかった。というわけで、今回これもゲット。
ちなみに【英語で9冊セットの電子本】は546円であった……。安い。アメリカのアマゾンで、日本の福音館のものと同じ表紙の一番ポピュラーな出版社のものを9冊電子版で買うと34ドルするので、多分これは著作権の法律の切れ具合と関係があるのだと思う。

 

あとは…と思ったら、ミヒャエル・エンデのシリーズがおすすめに出てきた。
 「はてしない物語」とか、「モモ」とか。うーん…好きなんだけど、なんとなく再読しないな、この2冊。
 これよりも絶対再読率が高いのが見られない場合は画像のリンク切れです【ジム・ボタンの機関車大旅行】。断然こっち。続編の「ジム・ボタンと13人の海賊」もゲット。
 
 あとは国内の作家さんで、「千と千尋の神隠し」を作ったとき影響を受けたと言われる、【柏葉幸子さんの3部作】

のうちの1冊、「霧のむこうの不思議な町」を買った。この本は図書館で何度読んだか。大好きだった。

 これでしばらく読書三昧。電子書籍って字が大きく出来るからね…。2、3年前まではこんなに字の大きさのことが気になるなんて全然なかったのに、やっぱり気になり始めると電子書籍が楽なのがよくわかる。
 大人になっても、子どもだった時読んだ本が変わらず好きだ。読み方は変わってくることもあるけれど、単に楽しいというだけでも読めるのがいいところだと思う。

アーサー・ランサムのシリーズ(電子本)

【昨日の日記】に、くまのプーさんの本のことを書いたら、とても読みたくなってしまった。私はどこかに、英語版買っていたはず。それもなんだか結構安く。
 探してみると英語版のkindleの中に入っていた。まあ、いいか…。とりあえず読んだ。この物語のプーさんは、ディズニーのアニメのとは基本的に違うクマだと思う。スヌーピーとチャーリーブラウンの哲学っぽい感じがちょっと入っているような感じと言えばいいだろうか。
 ひょうひょうとしていて、大切なことが何かわかっている、でも深くは物事を考えていない感じなのが、時々なつかしくなる。何回読んでも、遠くに置き去りにしてきた何かをもう一度手に入れたような気がする本だ。

 昨日リンクをはった井伏鱒二さん訳のドリトル先生シリーズ、実は岩波少年文庫がリニューアルしたころに一度買いそろえている。実家の段ボールにあるはずだけど、正直かさばる。今回購入決定(お誕生日プレゼント兼、クリスマスプレゼント)。本は処分しよう。
 
 アーサーランサムのシリーズは、私が子どもだったころから、絶対図書館にあるシリーズだった。厚手で、結構不愛想なヨットのマークのついた12冊のハードカバーを見たことのある人も多いのではないだろうか。

1:ツバメ号とアマゾン号
2:ツバメの谷
3:ヤマネコ号の冒険
4:長い冬休み
5:オオバンクラブの無法者
6:ツバメ号の伝書バト
7:海へ出るつもりじゃなかった
8:ひみつの海
9:六人の探偵たち
10:女海賊の島
11:スカラブ号の夏休み
12:シロクマ号となぞの鳥
この12冊。
 あれと、「王子とこじき」「さらわれたデーヴィッド」「不思議の国のアリス」「ホビットの冒険」「ニワトリ号一番乗り」「夢を追う子」などが入った福音館の古典童話シリーズが大体隣り合わせになっているという配置が多かった。

 あのアーサーランサムのシリーズも買いたい、と思って調べたらあの厚みの本を岩波少年文庫にもってくると全巻上下巻になってしまうらしく、24冊。高すぎる…。おまけに訳がちょっと違う。もう一度図書館で読みなおしてから考えよう。
 
 そうおもって、念のため英語のがいくらぐらいか検索したらね?
 見られない場合は画像のリンク切れです【英語だけど全シリーズ入って200円】ってどうなのよ!!日本語版の本を揃えたら2万円越えなのに、英語版は電子版とはいえ199円、100分の1って古本どころの話じゃない。
 
 挿絵はないのかもしれないけれど、200円なら文句は言えない。その場でつい、買ってしまった。200円ならプレゼントじゃなくてお小遣いで十分だ。
 本当は「今でも好きな児童書」という題名でこれを書き始めたけれども、アーサー・ランサムのこのシリーズが200円なら、ファンの人なら欲しいかもと思うので検索できるように題名にしてみた。

 ドトールのコーヒー1杯分だもの、英語の勉強に読むにもいいだろう。赤毛のアンからちょっと落ちるぐらいの難易度ではないだろうか。ちょっと船舶系の用語はつらいところだけれど、それは日本語版でも大差ないからね(注釈が入れてある)。
 岩波少年文庫には、私が好きだった本が多い。アリソン・アトリーとかも検索したが、なんと紙の本からして絶版、高騰している本が。しょうがない、これは図書館で読むよりないな。

 しかし、200円か…。うれしいような、どこか残念なような。

クマのプーさん

年末年始にのんびりしようと思って、軽く読めるものを、と借りてきた、「くまのプーさん」。軽いからこっちでいいか、と思った岩波少年文庫だったのだが、微妙に違和感が。

 もちろん原作の英語版も読めるはずで、そっちを読めば訳の良し悪しは関係ないといえばないのだけれど、日本語版は私が子どもの時に読んだので、懐かしい気分になるというおまけがある。
 
 読むとどうも、覚えているのとちょっと違うような。多分、訳が違う…?
 【前に訳が違うのがわかって旧版を買った日記】を書いたメアリーポピンズよりは読んだ回数が少ないので、きっぱりどことはわからないが、ちょっと違う。
 ネットで調べる。こういうことは割と信憑性の高い情報があることが多い。
 わかったのは最初の訳は1940年。
 そのあと、1956年に改訳。
 その次の改訳は1985年にしているのだそうで、最終の改訳はどうも1997年の愛蔵版で訳者はどれも石井桃子さん。

うーん、私が図書館で読んだのは小学校低学年だから、85年訳ではないはず。
多分56年訳であろう。

私が今回借りてきた図書館の本はみんなきれいだったので、多分全部新しいだろうなあ。割と読み継がれている本だし、多分人気がある程度ある、ということは古い本は残らない傾向がある。再版されているならなおのことそっちを置くだろう。多分85年訳か、97年訳だろうなあ。

 しょうがないな、古本を探すか、と思ったらアマゾンのマーケットプレイスの本に「1968年、第8版」と注釈のあるものがあった。本はきれいではないようだが、そういうのがなんとなくいい。私が田舎の図書館で読んだ本はたいていそういう本だった。古びていて、ぎりぎりの補修状態。黄ばんでいても、表紙と中身が取れそうだろうと気にせず読んだ。本は中身だからねえ。人気のある本は、よく本の表紙と中身のところが割れて裂けていたっけ。小さい自治体には図書館に回す潤沢な予算などというものはなかっただろうし、かなり長い間プレハブみたいな建物だった覚えがある。今住んでいる町の図書館では、まずそういう本を見ないことを思うと、やっぱり時代というのは変わっている…のか、単にこの町がいい予算を組んでいるのかどっちだろう。
 見られない場合は画像のリンク切れです【ハードカバーの2冊合本】。私が読んだのもこういう本だったはず。これと、「風にのってきたメアリーポピンズ」の2冊は愛読したなあ。
 今回買った古本は送料込み500円ぐらいだった。


 本当は訳としては現在出版されている訳のほうが正しいのだろうけれども……。村岡花子さん訳の赤毛のアンシリーズとか、瀬田貞二さんの訳の指輪物語とか、井伏鱒二さん訳のドリトル先生シリーズがいいとか、岩田 欣三さんのアーサー・ランサムの(ツバメ号とアマゾン号から始まる12巻もの)シリーズがいいとか、昔読んだのが好き、ということはあると思う。

 神宮輝夫さんのアーサー・ランサムサーガはかなりいいと思う(読んだ)し、ドリトル先生の未訳のシリーズが読める「つばさ文庫」のも、読んだらそれはそれで面白かったけど、買えるなら古いのがいいなあ。
 

ちなみにドリトル先生は見られない場合は画像のリンク切れです【井伏鱒二さん訳のもの】が買えるし、電子書籍版もある。私の誕生日兼、クリスマスプレゼントは「電子本たくさん」にしようかな!
 そう思って、ほしい金額の合計を出したら4万円ではきかなかった。

 だめだ、さすがにこんなにたくさんは頼めない。2万円なら、多分OKが出るんだけどな…。もうちょっと考える。




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くまのパディントン再読


最近、息子が読む本がないないというので私のkindleを貸したのが、これ、見られない場合は画像のリンク切れです【くまのパディントン】シリーズ。
 割と対象年齢が低く、私は小学校の低学年の頃に、このシリーズを図書館で読んだ。

 やけにマーマレードがおいしそうに思えてくる本で、この挿絵のクマのかわいいこと。
 イギリスのお話なので、「お茶の時間」や、「クリケット」など、イギリスらしい習慣もうかがえて、イギリスもの好きになったと思う。
 
 息子が、何冊か読んでからいうには、「この本は、読んでると、途中で『うぎゃーーー』ってなるんだ」というので、それはなに?とたずねると、つまりパディントンがいろいろ「やらかす」のを見ていると、こっちがハラハラしてはずかしくなってくるのだと。
 つまり、息子が感情移入しているのはパディントン本人?

 なるほどー。そりゃ、うぎゃーってなるわね。
 私は傍観者として眺めている感じでこの本を読んでいたので「おおっ」とか「うわあ!」とか、「かわいいーー!」とかにはなっても、うぎゃああ!とはならない。

 でも気持ちはわかるなあ。
 うぎゃーー!となるたびに中断するので、それほど分厚い本でもないのに、なかなか全部は読めていないそうだ。

 ああーーまたやらかす、絶対やらかすぅうう!と思いながら読むとハラハラするんだろうなあ。
 そういう読み方が出来るのは、やっぱり子どもだからだろうか。でも私はこの本そんなふうに読んだかなあ。

 軽く読める本だし、大体図書館にあるので、傍観者になってかわいいのを眺めるもよし、ハラハラしながら見守るもよしの名作だ。
 映画もあるんだけど、映画ではいろいろなところがすっとんでいて、あっという間に終わってしまうのでやっぱり本のほうがおすすめ。



*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

体験型小説のすすめ

最近【小説家になろう】というサイトで投稿小説を読むのにはまっている。とはいえ、ネットの連載小説というのは1ページずつクリックすることになるので読みづらいから、【kindle用文書変換サイト】を使って変換してから読んでいる。

 人気ランキングから選べば、結構面白いのにあたるし、これはいける!と思ったら電子書籍を買ったのもある。
 なんせ無料で試し読みが出来る(なんなら完結まで全部読める)ので、ものすごーくいいサイトだ。もちろん誤字脱字文章の稚拙さとかには目をつぶるしかないし、完結しないものも多いから、そのあたりは無料と割り切って読むしかない。

 面白いものはかなりの数「書籍化」つまり出版社が目を付けて文章を加筆訂正などして、本、電子書籍として出版されているから、改稿され、誤字脱字チェックのある程度入ったものを読みたければ金を出せ、ということだね。いくつか気に入ったものは買った。

 ここで大人気なのが「異世界転生もの」というジャンル。これは私たち日本に住む誰かが、全く違う物語の中の世界にふっとばされたり、赤ちゃんとしてその世界に生まれたり、またはその世界である程度の年齢になるまで育った時に日本に住んでいた時の記憶がよみがえって、そのころの知識を利用して、「中身は日本人」のままその世界で生きていく様子を読むというもの。

 小説とか、エッセイとかが面白いのは、「そうだよねえ」と共感できるからじゃないかと私は思う。
 主人公の体験を自分のことのように読み、年齢や性別や育った環境が違っても感情や気分は共通のものとして楽しむのが読書の、または映画やマンガの楽しみだと思うが、それにはかなり自力で想像する力がないとだめなわけで。

 共感する力が低いと、自分と似ている人のものしか共感できないし、育った環境や性別の差を想像力で補えなければ物語というのは共感度が低くなるので楽しめなくなる。その敷居をぐっと低くするのが、この「異世界転生」もの。

 異世界に暮らしている人の常識はないところからスタート。日本人にとってあたりまえの常識と照らし合わせながら順応していくことになる。もちろん主人公は現代日本人なので、常識は読者とかなり共通するから、それ以外に文章で解説をされていく形に落ち着いていく。想像力を働かせなくても、解説されて正しい道のりがあって、その世界に入っていきやすいように知らない間に誘導されている。気が付いたら主人公の肩越しにのぞき込むような感じにその世界になじめる。

 なるほど、普通のファンタジー小説より読みやすくなるんだなあ。何かに似ている、この感じ、どこかで…とずっと思っていたのだけれど、わかった。あれだ、遊園地の体験型アトラクション。本物じゃない、でも十分面白さが堪能できるように作ってあるヴァーチャルアトラクションに似ている感じ。

 惜しむらくは異世界転生ものがファンタジーと恋愛ものに偏っているところ。まあ、どれも面白いけど!(タダだし!)
サイエンスフィクション系とか、ハードボイルドアクションものとかがもっとあればいいのになあ。
 ただ……こういうのに慣れてしまうと普通の小説の導入部を読んで、面白いところまでたどり着く力が弱くなりそうではある。

いったい何を見ていたんだろう

サラダオイル詰め替え用の袋の端を切り取った、U字型の袋部分にたまった微量のオイルを見ながら、「これを気球の下につければ火をつけて飛ばせるよね」とか考えているところで目が覚めた。

なにそれ。そこまでで何をしていたのかが全部すっ飛んで覚えていないのに、サラダ油がこぼれないように持っている時の感じが手に残っていた。

夢って自分の脳みそに入っていることから構築されるみたいだけど、たまにこういうすごくへんてこなのが出るから面白いんだよなあ。
 本当に小さい袋で、小さじ1杯入るかどうかというような袋だったから(ちぎりとった端だったし)、気球といっても自分が乗るような大掛かりなものではなかったはず。夢の中の自分は一体、小型の気球で何をするつもりだったんだろう。気象の観測とか?輸送じゃないだろうなあ。

おまけにそういう火力……つまりサラダオイルは芯をいれればないよりましなランプにはなるけど、熱気球にはたりないのでは?とか疑問も思い浮かぶが、夢の中の自分は全くといっていいほど自分の考えの合理性に疑問を持っていなかった。あの量のオイルをいれて飛ぶ気球か……ミニミニサイズで魔法で飛んでるんだよね、それ。

 火はスイッチとしての役割しかないのだ、きっと。
 ここしばらくファンタジーなライトノベルばっかり読んでたからなあ。それの影響か。夢の中で楽しくやっている自分が多分いて。その活動にほとんどかめないのが残念だ。

 

はあ…。なんか楽しいことないかなあ。
 まずは掃除、洗濯、ごはんだものね。がんばろう。

気球を作って夜飛ぶ話は、たしか……。これだっけ。
見られない場合は画像のリンク切れです【ゲイルズバーグの春を愛す】。気球にのるのはこの本の短編、「大胆不敵な気球乗り」。他にもタイムパラドックスものとか、パラレルワールドもの、日常にひそんだファンタジーとしては滅多にない傑作選だと思う。

また読もうかな。


老後が怖くなくなる本(その1)

【吉沢久子さん】という人の本を読んだ。

 題名が「90歳。一人暮らしを楽しんで生きる」という本だったのだけれども、これが棚に並んでいて、91歳、92歳、93歳……とずらっとならんで96歳まであった(後で見たらもっと後のも下の段にあった。多分100歳まである)そのインパクトに目を惹かれたので手に取った。

 この人はエッセイを書いたり講演会に出たりするような人で、地方の新聞にコラムを書いたりもしているということが何となく本文から読み取れた。職業で行くと、文筆業とか、エッセイストだろうか。

 おいしいものを、びっくりするような高価なものではなく、日常でも手に入るような自分の好きなものを、好きなように調理して食べ、出来ることはやって、出来ないことは手伝ってもらって、鉢植えの世話をしたり、自分の姪やその子たち、孫たちを時にもてなしたり。そんなに遠くに出かけることもないけれども、一人暮らしを自分のペースで楽しんでいることがうかがえて、風流な感じというか、しみじみとくらしているのだなあ……というのがわかってちょっとうらやましくなるような、そんな文章だった。

 私はあんまり人づきあいのある方ではないし、この人みたいに色々な人間関係をうまく構築して、ちょっとしたことが頼めるような親しい人がいる暮らしにはならないと思うけれども、一人でも、それなりに身の回りのことをこなしてやっていけるのではないか…と思わせてくれる。調べてみるとこういう「老後生活の本」と言ったようなテーマの本をかなりたくさん出している。売れるんだろうな…。
 年を取らない人間はいないからねえ。みんなが「自分のこと」として考える問題なので、読みたい人が多いのだと思う。

 なんせ老後に何千万必要とか、年金が破綻するとか、コンパクトシティ構想で田舎の方は人が住めなくなるとか、なんだか将来が怖くなってしまうような話が多い昨今、自分の食べる分だけの簡単料理をして、贅沢しなければそれなりにやっていけるというトーンに安心感がある。

 この人は現役でエッセイを書いているぐらいだから収入もあるだろうけれど……とかまじめに考えてしまうとそこまで自分にあてはまらないかもしれないといえばしれないが、年金破綻にしろ、コンパクトシティにしろ、何千万必要な話にしろ、あんまり突き詰めて考えてもしょうがないのも確かだものね。

 もちろんこんな年齢になる前にさっさと死ぬかもしれないし、それをいうなら明日にいきなり暴走車にひかれて死ぬかもしれないなんて考え始めたら老後のことなんか考えるだけ無駄。

 だとしたら、雰囲気重視でこういう本を読んで、私も、家でご飯炊いて味噌汁作って、浅漬けでもして、後はお惣菜買ってご飯にしたらいいし、鉢植えの世話ぐらいはして、後はブログでも書いたら、楽しいかなあ…ぐらいのことを思っておくのもいいよね。
 手を抜いて、人づきあいは義理でしかなきゃやめて、本当に仲のいい人とだけ連絡とって……。出来ないことは出来なくていい、そういう老後。

 読んでいるとわかるのは、まず「毎日生きているだけでいい」とこの人が思っているところ。社会貢献がどう、とか専業主婦は役立たずだとネットで言われているとか、そういうことを全く問題にしていない。多分、戦争を体験した世代だからだと思う。
 食べ物がなくて死んでいった幼い子供たちや、兵隊に行って死んでいった家族がある人がとても多かった時代を抜けてきたら、確かに毎日ご飯食べて、それなりに元気に暮らせればいいのだと実感できるのだろう。

 それを私が真似してもいいなあ、と思う。毎日ご飯作って、洗濯掃除して、ご飯食べてお風呂入って寝るだけといえばだけ。編み物をしているか、ゲームをしているか、本を読んでいるか……というようなことはあっても、そういう毎日。
 仕事をして社会貢献をしている人を見ていると、自分はこれでいいのか、なんて気分がしてくる私にとっては、「これでいいんじゃないかなあ」と思わせてくれる本で、そして、きっとなんとかなる、と思わせてくれる本だった。

献立のヒント

献立を毎日考えるというのは、意外と面倒だ。
 正直なところ決まってしまってから材料を買い、作るほうが気が楽な気がするぐらい。
 まず、バランスの取れた献立であること。「きつねうどんと、ごはんできつねうどん定食」みたいな炭水化物バンザイ献立というのは出さないことになっている。まあ、タコ焼きとかお好み焼きも時々は出すが、それは時々だからいいのであって、しょっちゅう出すのはダメということにしている。

 次に、予算に大体おさまること。料理というのは材料がゴージャスならそれだけでかなりおいしくなる。だからといってお金をどんどん使って高い材料を買うと家計費がかかってしょうがない。節約大切。材料が珍しくなく、近隣で買えるのも大切だ。

 そして最後に「あんまり同じものがしょっちゅう出ないこと」。これが一番難しい。うちの夫はあんまり珍しいものを食べたいというタイプではない。玉ねぎと肉を甘辛く炒めた料理が一番好きで、それと唐揚げとカレーの3種類しか献立がなくてもいいと言うぐらいには、バラエティには無頓着。

  ハンバーグもいつでも歓迎、トンカツはうれしいし、寒い時期ならグラタンもいいね…ぐらいのことしか考えていないため、献立に迷ったときに意見を聞いてみてもあんまり参考にはならない。息子も「おいしければなんでもー」という、わがままなのかテキトウなのかよくわからない意見しか出てこないから、家族二人の意見は全く参考にならない。

 そして私は料理があんまりうまくない。夫や息子と比べると格段に上手と言えるだろうが、それは比較対象の問題であって、主婦歴が長い割には腕が上がっていないのが実情だ。失敗しづらい煮物とおひたしと、胡麻和えが多い。
 失敗しづらく、作りやすく、料理にかかる所要時間が短いという隠れた条件も実は、ある。

 昨日、アマゾンの購入履歴からのおすすめの所に見られない場合は画像のリンク切れです【ソードアートオンラインの22巻目】が出た。これはつまり私がソードアートオンラインを買っているから出るんだろうな。
 新刊?と思って即行で買ったら、21巻のストーリーの続きではなく、短編集、DVDボックスとかの特典の小説だったらしい。DVDボックスを買わないと読めなかったものなのでうれしい。
 バーチャルリアリティゲームの中でクレープを食べるシーンがあった。
 そのクレープのおいしそうなことったら!!果物と、クリームとトッピング……。やわらかく、まだあたたかい生地に冷たい生クリームがあふれそうになるところにかぶりつくときの感じが頭の中に再生された。うわあ……食べたいなあ。

 そしてもう1篇は、こっちはゲーム内ではなくて主人公たちが家で夕飯にうどんを作って食べるところ。
 冷たいうどんだったのだけれど、温泉卵やエビをのせたうどん。温泉卵とうどんがからんだところがやたらと食べたくなってしまった。冷たいうどんは、もうあんまり気分じゃないけど、鍋焼きうどんだったらどうだろう?最後に温泉卵のっけてたべたら、きっとおいしいなあ……と思ったらもう、それ以外の献立が頭に浮かばなくなってしまった。

 鶏肉、息子と夫はモモ肉で、私は胸肉(カロリー少な目だ)、お店のエビで一番小さいの(冷凍のはそれほど高くない)、お浸しにでもしようと思って買っておいたほうれん草、ネギ。準備しているとなんていうか、鍋っぽいチョイスだ。
 うどんもちょっと奮発して、32円の一番安いゆでうどんではなく、「讃岐うどん」と書いてあって、煮てもくずれにくいという75円のうどんにしてみた。

  しいたけは高かったのでシメジになったが、薄切りのカマボコをのせればぐっと「うどん」ぽさがある。ぐつぐつ煮てから、最後に温泉卵をぱかんと割ってのせて出した。
 タンパク質にエビと卵と鶏肉にカマボコ、ほうれん草とネギとキノコで野菜たっぷりで、炭水化物にうどん、と。バランスはOKのはず。
 
 夫は「寒くなったねえ、上着はもうちょっと厚いのがいいかも?」と帰って来て、「風邪ひきかけみたいな感じだったからこれはいいいねえ」と喜んでいたし、息子は「エビ好きー。うどんに温泉卵からまってるのがいいー」と喜んでいた。
 大成功、予算内におさまるし、バランスOK、作るの簡単、片付けも楽、おまけに家族に好評ということない献立だった。

 1カ月に1回だったら、作っても多すぎないかな。覚えておこう。
 

アップデート必須

図書館で見られない場合は画像のリンク切れです【あなたの知らない奈良県の歴史】という本を見つけて読んだ。

 この本の出版元へ行って、紹介ページにリンクを貼ろうと思ったら【洋泉社】のサイトはあったけれども、この本が検索しても出ない。絶版なのか?

 読んでみたら、なるほど私が小中学生の時習った定説を覆すような話がちょこちょこ入っていて面白かった。
 「平成8年に発見された」とかだと、確かに……。そのころには歴史の教科書とは縁がなかったからなあ。
 今の20代、30代のヒトなら「そう習った」ことでも、40代だとずれてるってことかあ。と思いながら読んだ。

 学問は後から発見がある。例えば生物学とかでも昔私の子供のころは恐竜の祖先というのは爬虫類と共通だということになっていたが、今の定説では恐竜の祖先は鳥類の祖先と共通しているということになっている話とかを見ると、アップデート必須。

 社会の常識と言われることも、技術革新と共に結構変わってきていて、パソコンは30万円もしない上に、長く使えるようになったから、企業でもリースよりは購入を考えるようになったとか、電話も「もしもし」と出るのは携帯電話、スマホが普及した今「常識」じゃないとか、いろいろと「そう言われればそうかあ」ということにも時々気づく。

 気を付けて自分のアップデートをしていかないと、「それが当たり前」「そんなの常識」と思っていることがずれてきて、時々見かける「最近の若いもんは常識がない」と怒っている人になっていきそうな気がする。

 ネットを見ていると、匿名だからか罵倒も多いし、情報の出どころが怪しいものも多い。やっぱり本は大事だよね。
 再読したい本も多いのだけれど、新しい本、見たことない本をなるべく読もう。

 もしかして、この歴史の本も、もうすでに古いのかもしれない。平成20年から後に出た本も探すかな。


俺はまだ本気出してないだけ?

いざというときになったらきっと、なんとか出来る。
 そう思っている人は多いのではないだろうか。

 私も、そう思って生きてきた年月は長いと思う。まあ、若いころの「いざ」なんて受験とか試合とかそういうものが多いこともあって、どうにかなってしまうことも多いし、命の危険はないから、そういうことを思ったままでいられる人のほうが多いだろう。

 「俺は本気出したら出来る」というのは、本気を出す機会もない、または本気を出すことを避けてのらりくらりと暮らしている人の決め台詞であって、本当はそんな力、出るわけないよと揶揄するのはネットの書き込みではよくあることだし、実は本気なんか出さなくても、それなりに暮らしていければいいという意見もネットではよく見る感じがする。

 いざというのはいったいどんな時なのか。大震災とか大水害などの災害や、事故などの大怪我、病気、人間関係におけるトラブルや仕事での無理が引き起こすメンタルの問題。自分のことでないならば、家族の大怪我、病気、入院、介護、死亡……。
 ストレスがかかりすぎると大抵の人は体とか心がうまく機能しなくなる。自分でそうなっているのね、と気が付けば対処も出来るのだけれど、例えば私の場合は「大丈夫大丈夫」と言いながらそのまま深みにはまり、眠れなくなって、そのままナチュラル・ハイのような状態になっていき、自分の状態に気づかないまま体も極限状態になって、そのまま心の状態も連動して悪くなって、周りの人が「絶対おかしい」と気づくぐらいになっても、まだ大丈夫と思っている……というようなことになってしまう。

 周りの親しい人に言われて、心療内科に行ったときにはもう、まごうかたなく異常なところまで行ってしまっていると言われ、薬を飲んですべての活動をほぼ停止して休んでしばらくたってはじめて、「あー。あれは無理してたのかも」と気づくというのを何度か(一度じゃないところがちょっとひどい)やって、自分が実はストレス耐性がかなりないのでは…と実感することになったのは、中年になってからっていうの、どうなの、ほんと。

 自分にストレスがかかっているのに気付くのが遅いし、気づいたときにはすでに手遅れみたいになっているとなれば、まず予防的にストレスがかからないように生活しなくてはならないのだということが今わかっただけでもまだマシ……と思っておくほかはない。

 かっこ悪いんだよねえ、やっぱり。何かストレスがかかったら、そこからなるべく離れるという対処を取らなくてはならないのってさ。こんな年齢になっても、格好がつけたいのか、と言われるとちょっと恥ずかしいが、やっぱり、こう、「本気出したら最高峰」っていうのってかっこよくない?夢じゃない?ロマンじゃない?それを小説にしたのが、これ、 見られない場合は画像のリンク切れです【ソードアートオンライン】

 主人公、キリトは命を懸けた勝負をしなきゃいけない世界に無理矢理突っ込まれて離脱不可能になるのだけれど、そこで自分を信じて、明日に希望を持ち、そして最高峰になってしまうという、そういうお話なのだった。

 もちろん現実世界ではそれほど能力もない普通の男の子なんだけど、そこはそれ、違う世界に閉じ込められるので……その中では最高峰、と。その異世界とは、ゲームの中。それも出られないゲームの中ってところが、この物語の肝。
 
 ネタバレはしないつもりのレビューなので細かいことは省くけれども、つまりこれは、「本気出したら俺って世界最強」を地で行く話だってこと。ゲーム内なのに現実の命もかかっているのもいい。
 もちろん努力してもかなわないこともあるし、現実を見ろという意見もあるだろうし、世界最強だなんて寝言は寝て言えだろう。でも…。本気出したら最強というのは別に持っていて困る夢でもない。

 まだ一度も起きていない本気の「いざとなったら」の「いざ」を怖がって慎重になりすぎるよりも、「いざ」が来た時も、きっと平気、本気出したら絶対いける!と思えるほうが健康にいいのではないだろうかと思う。私にはもう見られなくなった夢だけれども、このライトノベルを読む年齢の人たちにはその夢を持っていてほしい。

 なんせ、本当の本気で「いざ」が来てしまったときは最弱or最強であろうが平均的であろうが対処するしかないから。だめなら心が折れて病むという結末になるだろうし、だめでないなら、「神様は耐えられない試練は送らない」というようなテキトウな言葉で説明されてしまう。耐えられる試練というのは、「まだ大丈夫レベル」という判定になってしまいやすい。そうなると「まだ本気出してなかったんじゃあ」ということに……?耐えられる試練と、耐えられない試練は、紙一重かもしれなくても。

 何に、どれだけ耐えられるかということは個人によって違う。本当にこの小説みたいなことが起きたら……私は何百人かの人と一緒に死んでいただろうと思う。でも……でも。
 今はこの小説を読んで、ああ、主人公かっこいい!と喜びたい。私もきっと戦えるのだと。この本を読む価値はその爽快感にある。

 既刊が21巻とたくさんあるのだけれども、実は1巻だけ読んでもそこで完結でOKになっているので、1巻だけでもおすすめしたい1冊。
細かいエピソード集が2巻で、全く違う世界に入りなおしていく形で3巻から続くので、「あれはどうなったの?面白くないけどとりあえず結末は知りたい」とかいう風になっていないので構成としてはよく出来ている。
 IFシリーズとでもいうべき「ソードアートオンライン プログレッシブ」という別シリーズの文庫も6冊まで既刊読了。
 コミックスは読んでいないが、アニメと長編映画も見てしまった。

楽しみのために読む本で、別にこの本はためになるとか、教訓が学べるとか、そういうことではない。でもやっぱりおすすめしたい一冊。

フルメタル・パニック

長い連休に、ちょっとまとめて本を読みたいな…と思ったとき、アマゾンでゴールデンウィークセールをしているのを見つけた。
 大体半額。これは大きい。つまり、300円前後で1冊買えるというわけだ。
 セールになっているシリーズを見渡して、聞いたことのある題名の小説を買うことにした。
 この見られない場合は画像のリンク切れです【フルメタル・パニック】は、確かコミック化していたし、アニメ化していたはずなので人気もあるし、2000年より前に噂だけは聞いていた…ということはこの小説は長生きしているということ。
 マンガ化、アニメ化、長期間販売。大体この3つの条件にあてはまるものは傑作が多い。映画化…まで行くともっとすごいだろうが、まあそこまでは無理としてもだ。

 まず、12冊ゲット。ちなみに長距離移動の時に読み始めたのだが、スピード感があって次々読めるし、主人公が魅力的。
 今のライトノベルにありがちな、主人公がなぜか理由もなく何人もからモテモテ…というのではなくて、主人公ひとりに、基本ヒロインひとり。まあ、片思い的な人はもうひとりあるものの、主人公はその人には、そういう気はないとはっきり断るところがいい感じだった。

 主人公に感情移入して読む人には、モテてモテて…という状態がいいのかもしれないが、私はやっぱり、恋愛は一対一がいいなあ。たまにはハーレム系もいいかもだけれど、今回は王道の恋愛だったので(レートは多分R15でキスまで)昔ながらの…というとなんだけれども、安心して読める感じ。

 もちろんライトノベルなんだからして、ご都合主義といえばそうなんだけれど、物語として楽しめるぐらいにはご都合主義であり、かといって「いくらフィクションといっても、これはないわー」というほどではなく。
 結局寝る時間も惜しんで2日で12冊読み終え、番外編(9冊)とか短編集(3冊)まで買いまくって(これも大体半額)全部読みつくして、結局3日半かかった。合計24冊を12冊分のお値段で。ゴールデンウィーク10連休の出費として妥当だろう。
 
 主人公が強くて痛快…なのはまあ、ライトノベルの王道として、でも極端な環境で育ったため、日本の環境になじんでおらず時々とんでもないことをやるスラップスティックコメディになっているのが面白くて、電車の中で読んでいるというのに何度かふきだしたぐらいだ。カルチャーショックを経験したことがあれば余計面白いと思う。
 
 こういうのを全速力で読んでいると思うのが電子書籍のありがたさ。3時間で6冊なんて、持ち歩こうと思ったら重たいからね…。 これは多分時々読み返すと思う。

 この本の作者さんが監督をして、違う人が書いた、同じ世界の小説があるらしいのだけれど、そっちはどうするかなあ…。あんまり登場人物は同じじゃないらしい。(パラパラとは出てくるらしいけど)ので、ちょっとネットで調べながら悩んだけど、アマゾンを見に行ったら、半額じゃなかった。あ、残念、お小遣い切れ。

 また次回にしよう。
 しかし楽しかったなあ…。傑作だった。中高生でもないのにライトノベルが大好きというのは、実は悪癖なのかもしれないが、やっぱりやめられない。

よだかの星

  【よだかの星】というお菓子をもらった。
よだかの星というのは、宮沢賢治の書いた物語で、見かけがよくなくていじめられているよだかという鳥が、美しい星に…と書くと5秒で解説終了みたいなお話…ではあるのだが、読んでいるともの悲しくなってきて、子供の頃は好きな話ではなかった。

 宮沢賢治の書くものは、「注文の多い料理店」みたいな、ちょっとユーモラスなものはともかく、オツベルと象とか、グスコーブドリの伝記とか、終わりかたがどうにも、「これって、これでいいのかーーーっ」という感じのものが多かった。
 セロ弾きのゴーシュや、銀河鉄道の夜は割と好きなんだけど…。

 よだかが、「まるで味噌をつけたような」茶色のまだらだというところから、このおせんべいは作られたのだろうけど、とガブっとかじったら、おっと?これはおせんべいの味ではなかった。かりんとうの味だ。

 えー。こんな形なのに。黒っぽいところが黒砂糖なのはなんとなく見当がついたが、べとべとした黒砂糖と、油で揚げたこの味は絶対、かりんとう。

 見かけから、夫は「あんまり…」と思ったらしく、「俺いらない」といわれていたのだが、あんまりにもおいしいので、「すっごくおいしいかりんとうだったよ!」と半分に割ってすすめておいた。

 かりんとう、特に薄茶色でピーナッツがまわりにくっついたやつは、実は大好きで、ものすごくたくさん食べてしまうので、体重管理の面から禁じ手にしてあったのだが、ひさしぶりにかりんとうを口にしてとてもおいしかった。

 悲劇といってもいい、「よだかの星」がこんなにおいしいなんて…。みんなに愛されるおいしいお菓子といっていいよね。
よだかは、幸せになれたんだろうか。
どこかで、あのよだかが笑っているといいなあ、と思った。

ドナルド・キーンさんのこと

私が、ドナルド・キーンさんの本を最初に読んだのは多分中学生の時だ。
いまwikiを見てみると、1979年あたりの著作が多いから、そのあたりが図書館のエッセイ本のコーナーにあるのを読んだのだと思う。

なめらかな日本語で、書いていることはもちろん外国に育った人の目から見た日本ということから、著者が日本のヒトでないことは明白だったが、最初はてっきり、翻訳されているのだと勘違いしていたぐらいだ。

 1980年代は、まだアメリカの工業なんかも強くて、アメリカという超大国から、遠くの島国を…みたいな論調になるものが他の外国人作家からも出されているものが多かったように思う。ただただ、西洋からみた東洋のその文化の大幅な違いに魅せられた人の感動と、全く理解できないことを自虐的に書いたものも結構あった。

 今でいうと、ネットに「日本人がいかに素晴らしく、外国とは違うか」というようなことを書いたものがあふれているのに似ている。書いているのが外国人ということで、日本人としてはなかなかに面白く読めて、外国から見たらこう見えるのか、と思える、そういう本とは、キーンさんの本は一線を画していた。

 彼は…。なんというのだろう、日本人の心を、文学から解き明かして、中に入り込み、日本人としての考え方を身に着けているとしか思えなかった。古典を読み込む日本人だって少ないのに、きっとこの人はすごく凝り性だ(当時はマニアックという言葉は知らなかったと思う)と思ったものだ。

 この人の本は、割と図書館にも入っていることが多く、お金のない中学生高校生も読むことが出来た。90年代の著作までは、かなり読んだはず。

 私は、その後渡米した。
 文化というものは、その場に行ってみているだけでも、ちょっとならわかる。ものの考え方も、テレビ、ラジオ、本、映画、そういうものを取り入れ始めると味が違うのがわかる。
 ドナルド・キーンさんと反対向きに文化交流をした私はといえば、その違いに新鮮な驚きを覚えたのも確かだが、そのなじまなさ加減にぐったり疲れた。日本に住んで、外を眺めるのと、外国に住んで体験するというのは、違うものだということがわかった。
 
 西洋文化圏の本は、キリスト、ユダヤ教系の一神教がしみこんでいるものが多い。善悪の基準や、死生観や、世界のとらえ方がそうなっている。アメリカ文学、イギリス文学は大学でやったけど(実は文学専攻だった)解説を聞いて、その宗教のしみこみ方の頑固さというか、強固さは、驚きだった。
 アメリカが、宗教弾圧で逃げてきた人で作った国だというのは、ダテじゃない。

 1990年代のかなり西洋文化を受け入れた後の日本から行ってもこうなんだもの、アメリカから戦後すぐの日本人の手帳だの、英訳とはいえ1000年昔の源氏物語から日本文化をかじり始めたキーンさんは、大丈夫だったんだろうか。
 アメリカにくたびれた私はあの本、書いてた人すごいわ、としみじみした。これだけ差があるものを、よくぞ…と。

 日本に、ある程度アメリカにひたって微妙にアメリカ味になった私が帰ったあと、私はこの人のエッセイ、多分新聞の連載かなにかのだったか、またはインタビューだったかを読んだ。
 もう一カ所しか覚えていないのだけれども。

 当時、キーンさんは日本語を研究し始めてから何十年も経っていて、古典も、もちろん近現代のものも読み込み、研究者として言えば大学で古典とか文学の授業の教授が出来るぐらいになっていたわけなのだけれど、それでもキーンさんのところには、15歳の日本人中学生から「あなたは日本人じゃないから、日本の心がわかっていない」というような手紙が届く、というような話だった。

日本人が生まれながらにして持っている「日本人の心」というものがあると信じている人があるのだけれど、それはその15歳の人が生まれる前30年も40年も前から、日本語を勉強している人にわからないものなんだろうか、と。

 私はこの話を読んだ時、キーンさんにとても、同情した。そりゃないだろう…と思ったものだ。
 アメリカは、移民の国で、まあ最近はトランプのこともあるから、移民には厳しくなったけれど、当時は合法的に来る移民は歓迎していたし、移民がアメリカのエンジンとして働き、いつでも新しい力を得て先端を走り続けるのがアメリカである、という空気があった。
 国を盛り立て、何も持たないところから勤勉に働き、アメリカンドリームをかなえる、それが正しいアメリカ人だとみんなが信じていた。
 元来た国がどこか、なんていうことは問題ではない。アメリカに貢献するのがアメリカ人だと。

かたや文化にこれだけ貢献しても、日本人の心がないと言われてしまう日本。 
日本人が美徳だと思う性質をもった人はもちろん、アメリカにもいた。
ただ、日本に、公衆道徳や、謙譲の美徳を持っていない日本人がいるように、アメリカにもそういう人たちはいる、それだけなのだから。
私は、「日本だけが特別」と思うのはやめておこう。この日本語の研究者である、キーンさんのためにも。
 これだけ日本のことを真摯に研究している人に、そんな失礼なことを言う人にはなりたくない。
 彼の本のファンだった私はひそかにそう、決心したのだった。キーンさんはそんなこと夢にも知らないだろうけど。

彼の日本語は、美しかった。本は興味深く読みやすく、わかりやすいものが多かった。
正確で読みやすく、なおかつ美しい、そういうことがかけるのが文学者なんだな…ということがよくわかる本。

鬼怒鳴門なんていう漢字の選び方に茶目っ気を感じる。
 キーンさんの宗教がどれだったかは存じ上げないが(ご両親がイディッシュだということはユダヤ教?)、意外と、仏教風に、極楽浄土なんていうのが似合いそうな方だと思う。
 きっと、IC録音機なんか持って、紫式部のインタビューを…なんて。もうとっくに生まれ変わって紫式部には会えなかったりして。

 全著作集なんていうものが出ているのは今回初めて知った。
 この人の本をまた、読もうかな…と思った日だった。

橋本治さんの思い出

橋本治さんが、亡くなった話をちょっと前に聞いた。
 私はもちろん、橋本治さんと個人的な面識はないが、なんとなく「知っている作家さん」みたいな気がしていた。つまり、その人の書いた本を何冊か読んだことがあって、顔と名前と、どんなことをする人かが一致している作家さんだ、と。

 大体私は作家の名前なんか見ずに本を読むことが多かった。特に子供の頃は。だから、昔に読んだこんなストーリーの本…とまでは思い出せても、描いた人の名前なんかちぃっとも思い出せず、幻の名作状態になることがあるぐらいだ。

橋本治さんが顔と名前が一致するのは、私が買った本の中に、本人の写真が載っていたからだと思う。
何冊かあったが、私が所持しているこの人の本は、編み物の本。

 当時、私は高校生。うちには、編み物の本は何冊かあったが、どれも「編み物が出来る人のための本」だった。編み図と出来上がりの物を身に着けた写真は載っているが、詳しい手順は載っていない。母親は機械編み手編みかぎ針編みにレース編みと、全種目制覇みたいな人で、毛糸は常に押入れにあふれていた。

 編み物が出来る人口は多く、手編みのセーターマフラー、帽子に腹巻に座布団に…当時はそれほど珍しくなかったのだが、編み手は女性がほとんど。お姉ちゃん、お母さん、おばちゃんにおばあちゃん。だが、橋本治さんの本は、「男が編む チャレンジニット」という、男性用と言える編み物本だった。

 人よりちょっと不器用だった私は、「誰にでもわかる!初めてのあみもの」なんていう本を読んで挫折したことがあったため、いくらなんでも、男性用ならいけるだろう…と根拠のあんまりない理由でこの本を手に取った。
 説明文と写真が、当時の女性用の編み物本とは全然違った。なんと、私はこの本を読んで無事セーターが編めてしまったのである。それも、簡単な「まっすぐ編めるセーター」とかではない。ちゃんと袖ぐりとか、襟ぐりとか、肩下がりとかで減らしたり増やしたり、引き返し編みをする、初心者用ではない本に載っているタイプのセーターが。

 目の減らし方、増やし方の「フツーの本には書いてないけど、そういうことになっている」ようなことが、わかりやすい文章で説明されていて、なぜこういう本が他にないのかと疑問に思ってしまうぐらい、わかりやすかった。

 (ちなみに、このチャレンジニットシリーズ、アマゾンでは5000円なんて値段がついているが、500円から1500円ぐらいが古本の相場だと思う。特に1冊めは弾数が多いため、買いやすいので、しばらく待った方がい。訃報からこっち、この人の本は上がっている可能性がある)

 だから、私にとっては橋本治さんは編み物の本の人であった。
 古典の現代ライトノベル系リライトみたいな本もある(結構面白い)のだが、それを見つけたときも、「あ、編み物のあの人の本だ」と思って手にとった。
 
 ものすごい編みこみのセーターを編んでいる人。それが私にとっての橋本治さんだった。
 高校生当時は、図書館の本だったチャレンジニットのシリーズはそのあと手に入れて、何冊か家にあって、参考にしている。
 
 きけば、まだ70歳だったそうだ。まだまだ、書けるお年だったのに、惜しい。
 編み物の本も、是非復刊してほしいと思う。こんなにわかりやすい本だもの、編み物が家庭科の実習から外れた今、やってみたい人もあると思う。まあ、動画もあるけど…でも、左右でなるべく糸を切らずに肩下がりを編むときの、図と実際の編み方の解説をやっているのはこの本ぐらいだと思うし、どんどん進んでいく動画よりも、図解と写真のほうがいい人もいると思うんだけどなあ…。
 4冊のうち、1冊目だけでいいから。靴下の編み方も、すごくわかりやすいし…。

 最近は、編み物の本は出していなくて、主義主張とかエッセイとかの本を出していたみたいで、そういう本のことを書いている人は多いみたい。
 そういう本も、一応何冊かは読んだけれど、やっぱり私にとっては、編み物の本の人だ。
 彼は最近、編み物をしていたのかなあ…。最近の段染め毛糸の流行とかは知っていただろうか。

 まだ編み込みの出来ない私は、これからも編みこみのものを見るたび、華やかな桜吹雪のセーターを思い出すだろう。橋本治さんの名前とともに。彼は、1号だか、2号だかの竹の編み針がこすれて細くなって折れるぐらい、編んでいたそうだ。
 私もがんばろう。彼の本を読むたび、また編み物熱が上がる。

ぐるりと一周するとと死ぬの?

今読んでいる本、見られない場合は画像のリンク切れです【Gossip from Thrush Green】は、イギリスの田舎の村の生活を書いた本。
 そのなかで、年齢ははっきり書いていないが、多分20代半ばの女性が、水ぼうそうにかかる話があった。

 今は、予防接種を打ちましょう、ということになっているので、うちの息子はかかったことがないが、私が子供の頃は、大体兄弟のある子なら幼稚園ぐらい、または小学校低学年ぐらいにはかかって終わらせるのが当たり前の病気で、母子手帳にはかかったことをチェックする欄があった。(今は予防接種をいつやったか、という欄がある)

 この物語の村で一軒しかない居酒屋兼めし屋みたいなお店で、みんながその噂をわいわいとする。

 ◆あんなものこどもっぽいもの、もっと小さいときにやっとけばよかったのに…
◇ 20歳位の時にやって、かきむしるな、といわれるのにうんざりしたっけ、かわいそうになあ
 ◆おじさんのお父さんが80歳近くになってからやって、死にかけたことがあるよ。
◇ いや、これよりはおたふくかぜのほうが怖いよな、「男の力」がなくなるって話だ。
 ◆ 俺が入院したときにこれをやった人が同じ部屋にいてさあ(周りがもう入院したときの話にうんざりしている)
というような、あーありそう…という話に混ざって出てきたのが、

 Shinglesといっしょにやると、たかが水ぼうそうでもきついらしいぜ…というのが出てきた。
 shinglesってなんじゃらほい、と思って辞書を見たら、「ヘルペス」のことらしいということがわかった。

Only if it meets round your ribs. You can have spots all over, but if they meets round your middle you're a goner"
「あっちこっちにブツブツが出来るけど、あばらのまわりをぐるっと一周したら、死ぬんだよな」

あはは、これ聞いたことある!(ちなみにこれはうそ)イギリスでも、これは言われているんだね、きっと。
舞台としては1950年とか、60年とかそのあたりなんだけど、本が書かれたのは1981年。
 そのあたりにはもうある伝説だったんだなあ…。

ヘルペスって、出るときはあばらのまわり、つまり胸に出ることが結構ある。大抵体の片側にでるのだが、ひどくなると反対側にもでる。
不思議なことに、体の脇の方からスタートして真ん中の方に広がってくることが多いので、左右からスタートして、真ん中で出会う…というような出方になるので、こういう噂になったんだろうけど。

 こういう噂っていくら否定しても、本当だと思う人があるからなくならないんだろうな。
 イギリスの人と日本の人、ヘルペスにかかって、じわじわとぶつぶつが広がってくるとき、考えることはそんなに変わらないのものなのだな、と面白かった。

 村の暮らしが淡々とつづられている本で、13冊のシリーズ。この作者さんは、こういう感じの村に住んでいたそうなので、いろいろ本当にあったことに題材をとったことも多いみたいで、噂話をするおじさんたち、おばちゃんたちを見ていると、あー、こんな人ありそう…と思うのがとても楽しいシリーズだ。

  ちょっと、どこかの村へ、休暇に遊びに行っているような気分がする。

 kipper=ニシン、とか、あとは商品名とかも出てくるので、「Ryvina」って何?とか(クラッカーにブランドっぽかった)ちょこちょこ調べながらになる。手持ちの辞書がアメリカ英語の辞書なので、wikipediaのほうが役立つぐらい。
 イギリス英語の辞書に替えたほうがいいかもしれない。
 


折り紙のおひな様

子どもだったころ住んでいた、とても小さな町の図書館は、蔵書が少なく、市民の寄付の本の割合も高かった。
その中にあって、私が何度も借りて読んだのが、これ、見られない場合は画像のリンク切れです【折りびな】の本。

 私は次女だったので、自分のおひなさまがなかった。田舎ではあたりまえのことではあったが、華やかな7段飾りがうらやましかったものだ。自分だけのおひなさまが欲しい。そう思っていたが、子ども用の折り紙の本にあるおひなさまは正直なところちゃちだった。折り方は簡単で、紙も一枚で折るもので、赤や青一色のおひなさまに鉛筆で目鼻を描くというそのつまらなさよ…。

 でも、この本のおひなさまは、顔なんか描かなくてもなんとも雰囲気があり、美しかった。
 折り紙というものは、割と手に入るものだった。今みたいに100均とかはなかったから、自分で買うという選択はお金がなかったので選べなかった。でも、無地のいろがみだったら教室においてあることもあったし、工作で「学校の授業でどうしても必要」なこともあったから、倹約一番のうちの親でもさすがにそういうものは買わないとは言わなかったので、その残りもあった。
 祖父母が何か、買ってくれるというのは、「あまやかして」と親が嫌がることも多かったが、高いおもちゃではなく、箱入りの千代紙ぐらいなら、OKが出たこともある。

 それでこのおひなさまを折るわけだ。意外と、10枚は同じ紙がなくて、五人囃子の服がそろわなかったりしたのを想像力で補うおひな様だが、そんなことはかまわなかった。きれいに並べて、うまく出来たな…と喜んだものだ。家にとってある包装紙の赤っぽいのを探して空き箱に貼ったり、引き出物の箱を解体した金ぴかの紙を折って屏風にしたり。昔の小学生は暇だったなあ。

 この本、あんまり見かける本ではなかったので、絶版で寄付だったんだろうな、という解釈だったのだけれど、どうも復刊しているみたい(2012年刊)。折り紙の本をアマゾンで見歩くと候補に出てきた。2300円、薄い本で、ちょっと高めだが、折り紙(材料)もついているので、買ってみた。


 ついでに見られない場合は画像のリンク切れです【友禅千代紙】も買ってみた。無地が10色x2枚ずつ、柄が20柄x1枚ずつ…ってあらら。これでは三人官女がおそろいにならないけど。

 100均で見てくるか…。折り紙というのは、大体初めて折る時はよっぽど慣れた人でないときれいに折れない。
練習を少なくとも1回はやると、2つ目からの完成度は上がるものなので、まずは練習!いい感じに折れたら、収納用たとう紙ケースも折ろう。
 
 しかし…きれいな模様付きの千代紙だなあ。子供の頃は、こういうのもひっくるめて「折り紙」と呼ばれていて、折り紙は持ってくるのを禁止とか言われないから、学校で何年かに一度、爆発的に流行った。お友達同士で取り換えっこするわけで、全く持っていない場合は参加できないから、ある程度は「資産」が必要だった。

 大勢が持っているものは取り換えレートが低いし、田舎の店の商品展開は狭く、人気がある物は売り切れで余計にレートがあがるという、割と需要と供給を学ぶ機会になるものだった。男子の場合は牛乳キャップ、女子は折り紙。祖母がくれるクラフト材料の残りはカッターで正方形に切っておくと割と珍しい柄が多かったから、「高く売れた」ものだったが、いかんせん弾数が少なく、小遣いが出せなかった私は結構苦労した。

 そんな私が袋にいっぱいの20柄の千代紙を買うと、私の中の子供が、「うわあ…」と言って喜ぶのだ。
 あー。一つも折らないうちから、もう1パック、折り紙が買いたくなってきた。
でも、折り紙は気を付けないとな…。
 
厚手のつるつるした紙で折るといいもの、薄い紙で折るほうがいいもの、ちぎれないように和紙素材で折らないと印刷柄が折り目のつけすぎで剥げるもの…とか折るものによって最適な折り紙が違ってくるので、まずちょっと折ってから考えよう。
 付録の紙は、ちょうどひと揃いしか折れないみたいなので、取っておくとして。

…こうやって「きれいだけど、もったいなくて折ってない」折り紙というものがでてしまいそうだ。子どもの頃もそうだったんだよね。でも、正直あれは多分、ごみに捨てられたんではないかと…。今、あのコレクションが出てきたところでほしいかと言われるとそうでもないから、やっぱりもったいないとか思わないのが正解なんだろうな。


 

お楽しみ弁当?

図書館の本は気を付けて返すようにしておかなくてはならない。2週間もあれば、10冊あっても読めるはずではあるのだが、途中で2冊、3冊とちびちび借りると、いつが期限なのかがわかりにくくなる。
 
 図書館で、貸出本のリストを出してくれるのを片手に、私は本のチェックをしていた。

 「編集手帳26集」 面白かった。短く興味深く、これはもっと他の巻も借りてこなければ。
 「編集手帳 傑作選」 26集とかぶるのがいくつかあった。もう傑作選といわず、全部読んだほうがいい。
 「思い出のマーニー(上下巻)」これは買うに至っていないが、時々読み返す。
 「ヒエログリフがわかる絵本」 すごく面白かったけど、覚えるほどじゃないからきっと博物館で見ても読めない。
 「ハヤ号セイ川をいく」 この人は「トムは真夜中の庭で」を書いた人。好みだった。
 「ミトラの密儀」 これは誰が選んだのか知らないけど、「おすすめ」のコーナーにあったので読んだ。
 「海のたまご」
 「青い月の石」

「お楽しみ弁当」??料理の本だな…。どこにいったんだろう。料理の本は大判が多い。図書館で借りる料理の本は、早く出来る料理だったり、簡単料理だったりというような本が多い。先月借りた作り置きの本は、料理の写真だけ見て、献立が思いつかない時のヒントにした。お弁当のおかずの作り置きとかは、副菜を作る時の参考になるのが多い。簡単、早く出来て、材料がむずかしくないものがいいんだよね。

 うーん。「お楽しみ弁当」がどんな本だったかあんまり覚えてない。息子が借りている本にまぎれているわけでもなし、寝室にも自室にも持ち込んでいないはずだし…。
 あまりにも見つからないので、他の本だけでも返そう、と積んであった文庫本や、新書をなんとなく数えながらそろえる。
あれ?10冊あるぞ?貸出冊数の上限は10冊だから、これで全部あるはず?
 
 チェックしなおした。あ??見られない場合は画像のリンク切れです【吉田健一著、「お楽しみ弁当」】は、なんと文庫本であった。
 この本は、そういえばパラパラっと中身を見て、ぱっと借りてきて帰ってきたとたんにパーッと読んでしまったのだった。題名を見ていない、覚えていなかった本だと思う。
 私は、本を借りた人が返却手続きをした本をのせるワゴンから本を選ぶことがある。ちょっと目を引く題名だったりするか、なんとなく面白そうだったらその場で手に取って、中をのぞいて借りてくる。「誰かが借りたばっかりの本」というのは、ずっと本棚に入ったままの本より面白いことがあるからだ。
 
 この方法は、自分では選ばないようなジャンルの本や、知らない作家さんの本を、手間を取らずに選べるので、実はかなりいい方法だと思っているんだけど、本当に題名を覚えていなかった。

 この人の本を読んだのも多分初めてなんだけど、とても面白かった。裏表紙の内側を見ると、この人が書いた本がずらっと並んでいる。ちょっと楽しみだ。

今回の教訓。
 図書館で自分が借りた本の題名は、返す日ぐらいまでは、ちゃんと覚えておこう。


編集手帳を読む

図書館へ行ったとき、運よく新聞コラムのことを思い出したので、本を探してみた。
てっきり随筆、つまりエッセイのコーナーにあるものだと思ったが見つからない。しょうがないので、図書館の検索システムで見られない場合は画像のリンク切れです【編集手帳】と検索をかけたら、304という分類番号。
えーっと、社会ナントカなわけだ?と思って見に行ったら、「社会科学」だった。へえー。そうなるのか。
あんまり普段見に行かない本棚だった。

 26集からあとと、傑作選というのがあったので第26集と、傑作選を借りてきた。
 本の解説を見ると、この竹内政明さんという人は、2001年からこのコラムを書いているらしい。
 18年、毎日かあ…。いや、多分、毎日一つずつ書いているわけではなくて、何本か書く日もあるとは思うけれど、それでも、つまりこういう文章を18年も書き続けているのは、すごいことだな、と思う。この人はほかに著作もあるし、新聞社でほかの仕事もしているのだろうからねえ…。
 
 パラパラっと読んでみると、天声人語よりも、何かの引用でスタートすることが多い。時事問題も割と多くて、その当時のニュースを知らないと、あれ?これどんなニュースだったっけなあ…となるだろうけれども、この26集というのは2014年の前半のものらしいので、割と覚えがあるニュースが多いので、なんとかなった。

 新書版で、見開き分で一日分だから、どこでやめても大丈夫な本だ。
そして、どこを読んでも、へえー、面白いなあ…。と思える。

 ばったり会った人が、縁側でお茶を飲んでいく。

「こんな話、聞いたんですよ、それがね…」
とスタートして、ひとくさり話をして、私が、へえー。そんな話が?面白いですねえー。と相槌を打つ。
「あ、長居してすみませんね、また今度」とその人が帰っていく。

そういう感じ。
いいな、これ。こういう話の面白い人が知り合いにいたら、どんなに楽しいことだろうか。
話題がたくさんあって、毎回それをまとめて面白い話に出来る人。こういう人にあこがれたことがある。
今でも、あこがれはある。「あの人は話の面白い人だ」というのは、一度は言われてみたい、ほめ言葉だ。

読売新聞を取って、1日に1つずつ受け取るのがいいか、それともまとめて届くのがいいか、どっちかなあ。
雰囲気は1つずつ届くのがいい…がたぶん、読み返すのに不便なので、私はやっぱり本で読もう。
電子版があればいいのになあ。
昔、「スクラップブック」というものがあったよね。新聞記事で気に入ったのを切って貼って取っておくの。
これは本になっているけれども、もし全部本になっていると知らなかったらスクラップブックに毎日貼って貯めたかもしれないなあ。

軽くて、覚える必要がなく、かといって知っていると面白い…そういうものを読みたいときにおすすめ。

ライトノベルの電子本を買う

若いころは…なんて出だしの日記を書くと、自分が特に年取ったような気がするのがちょっと嫌だけれども、実は中高生の頃、私はライトノベルをあまり読まなかった。
左の絵の、見られない場合は画像のリンク切れです【ロードス島戦記】みたいなのは、高校の時の同級生にもすごくファンだというような子がいたもので、たしかこのロードス島シリーズは元はテーブルトークのRPGのシナリオみたいなのじゃなかっただろうか。ちょっと遊んだ覚えがあるが、私は、小説で、ハイファンタジー(世界観が全く今の世界と別世界のものなファンタジー)は、トールキンの指輪物語一択でしょう!と思っていたので、一応1巻はお義理で読んだが、「全体的に薄い」と切り捨ててそのままだった。

 当時は、重厚長大な物語が大好きだった。本を読むのが好きで好きで、まず「冊数が多い」または「分厚い」というのが目を引く一番の要因だったぐらいだ。いくらでも読みたかったし、いくらでも読めた。
 
 当時はまったのは、栗本薫の「グイン・サーガ」。私が気付いたときには30冊ぐらいあったろうか、もっとあったかもだが、あれは130冊を超えてなお、完結しないぐらいの大長編、あれをこう、学校で友達に5冊ずつ借りて、学校の机の中に積んでおいて1日で読破、なんて。もちろん授業中も読むのであるから、先生には見つかって叱られたものだったが、上下巻より、上中下巻、それより6冊セット、8冊セット、10冊セット、それよりも20冊あるシリーズが魅力的だった。

 中学の時の友達は、「三毛猫ホームズ」のファンで、出るたびに私に本を貸してくれたし、鉄道好きの友達は西村京太郎のファンで、鉄道が絡むミステリーをしょっちゅう貸してくれた。どちらもかなり冊数があったように思う。先が知りたくてどんどん読書速度が上がっていたころで、三毛猫ホームズぐらいの本だと、あんまり細かいところは覚えていないが、とりあえずストーリーを楽しむだけという条件でなら、1冊30分ぐらいで読めたと思う。
 図書館で手当たり次第に本を借りて、山に積んでおいて片っ端から読むのが、とても楽しかった頃だ。

 あの頃は、どうしてあんなに間断なく、長時間かけて本が読めたんだろう…。
 今は、本にのめりこむまでに15分ぐらいかかるようになっているし、今は家事のことを考えると細切れに一日中やることがあって、長時間本が読めない。短く切り上げられる本がよくなってきた感じがする。多分、体力…じゃないな、本を読むのに使う力は何力というのだろう。継続力?なんにせよ、本を読むのに使う読書力が、文章の読み取り能力とは別に減ってきている感じがする。

 更年期のせいなのか、はたまた老眼のせいなのか、それとも家事をしない日なら本が長時間読めるのかわからないが、ライトノベルでも読むかな…と思ったとき、アマゾンのセールで目に付いたのが上にのせた、「ロードス島戦記」だった。7冊まとめた合本版が2000円だというではないか。アニメ化もしたという人気作だし、大体30年も前の本だというのに新装版が出るってことはやっぱりこれは名作なんだろうな…というわけで、1冊300円ぐらいという値段にひかれて購入。

 この本を買った人は…のところに出たのが、ロードス島戦記の前時代にあたるという「ロードス島伝説」。これは1600円ぐらい…で6冊って、ねえ!安いんだけど!!1冊250円ぐらいだ。
 そしてロードス島戦記の続編にあたる「新ロードス島戦記」が7冊で1750円。ねー。なんか値段設定間違ってないこれ?
そしてどうも同じ世界の物語ということになっている「魔法戦士リウイ」が21冊で2350円。
 どうしてこんなに安いんだ…。10月分の小遣いはたいて、全力で買ってみた。
 これはあれだ、安すぎてほしいかどうかを本当に検討せず買ってしまう、バーゲンに負けるパターンだ。

まず1日でロードス島戦記読了。割とおもしろかった。
次の1日でロードス島伝記読了。えー。こういうことになってたのー?
そして次の日だけでは終わらなかった、もう2日かけて新ロードス島戦記読了。
えーーーー。こんな終わり方なのー!微妙にすっきりしなーい!こういうものなのかもしれないけどー。
というわけで、4日で5000円ぐらい。まあ…こんなものだろう。数年たったらまた読み返してもいいしね!
21冊のシリーズのほうは、明日から読む。

ライトノベルとはいえ、一気に6冊とか読むとちょっと頭がぼーっとする。

 多分、これ1冊600円したらここまで一度には買わないと思う。でもこれ1冊110円から250円なら、まあ…。
あと、紙の本だと場所が困る。ロードスシリーズだけで20冊、魔法戦士のシリーズまで入れたら40冊。どこに置くのよ、ってなものだが、電子版だからねえ、いつでも持って歩ける。

ライトノベルというのは、小説よりぐっと軽く、読みやすい。語彙が簡単だし、ストーリーの構造もあんまりややこしいものはない。ファンタジーといえども、世界が、言語が、文化や習俗が…というような作りこみがあんまりないのも確か。でも、コミックスよりも長編で複雑な物語が展開するのは、多分絵ではなくて文字で書かれているから、情報量が多いからだろう。
 コミックスは大体1冊で5分しかもたないから、出す金額の割につぶせる時間が短いので、よほど好きなものでないと買わないが、ライトノベルは1冊で3、40分から、厚めのだと1時間は読めるし、こういう合本版で何冊かセットになっているとたくさん読めてちゃんと物語を楽しんだ、という満足感があるのがいい。
 ちょっと体力が落ちてきた今にぴったり。
全巻揃えて「完結」になっていて売られているのもいい。
 どんなに大好きで、出版されるたびに買い集めた小説でも、未完というのは残念なものだからね。

 そのつもりになって検索したら、出る出る。(ライトノベルのカテゴリから、「合本版」で検索した)
こういう半額?みたいな値引きになっているものは角川系統が多いようだ、と思って角川のサイトを見に行ったら、どうもライトノベルの文庫レーベルの30周年記念っぽい。
 「スレイヤーズ」シリーズも安くなっているようだ。これは誰だっけ…確か学校の図書室でよく会う男子にこれが好きだという子がいたような…。この際だから、しばらくライトノベルを読もう。
 名作で、安くて、面白いなら言うことない。読んでない本は古くても新刊本と一緒だ。

読もう、と思ったら意外と読めることも判明。
「近いうちに図書館へ行って、借りてきて読もうかなあ」だといつまでたっても読まないけど、手元にお金出して買ったら、どんどん読み進めたりする。
 ここ数年、手芸の材料を中心にお金を使っていたけれど、今年は材料はもういっぱいあるからためてある分を消費して、本を買おうかな。
 子どもの頃は「あんな子供っぽいもの読まない」とか思っていたこともあるけれど、子供っぽいのが気になるのは子供だけ。もうどんなに割り引いても子供っぽく思われない年になったのだから、多少子供っぽくてもいいや…。
 よく、残していく本や、趣味のコレクションを「死んだときに、後始末してもらうのが恥ずかしい」という話を聞くが、電子書籍は多分…それほど人目に触れないし!それに多分、これを見るであろう夫は、私が何を読もうと…それがライトノベルであろうと、少女小説であろうと、気にしないだろう。そういう人だ。多分、苦笑されるぐらいのことはあるかもしれないが。
 赤毛のアンと、ロードス島戦記が隣り合って入っている中学生の本棚みたいな私のkindle。

一周回って、とても私らしいと思う。
 


星の王子さま

私と、星の王子さまとの出会いは、およそ思いつく限り最悪だった。
 私は、8歳だった。
 私に、一部を隠した開いた本のページを見せて、「これなんだと思う?」と聞いた人がいた。

 私は、「ぼうし」と答えた。
 「えー?ほかにもっとないの?」
 「茶色いぼうし」

その人は、その茶色いぼうしは、帽子を描いた絵ではなく、ゾウを飲んだヘビの絵なのだ、と解説して、私に、「えーーー?」と言わせた後、私を「子どもらしくない」とか、「想像力がない」とか、「子どもだったらわかるかと思ったのに」とか、なじって、去っていった。

 わけがわからなかったが、自分が不興を買ったこと、「こども」として当たり前のことが出来なかったらしい…というがっかりした感じが残った。
 
 そのあと、私はその題名の本を学校の図書館で探して読んだ。
 字がそれほど小さくなく、それほど長い本でもなかったので、一応「こども用」だと思って読んだのだが、読んでも王子さまがいて、そしてその王子さまはバラが好きで…と読んでいっても、別に話がどう盛り上がるわけでもなく、何が面白いのかイマイチぴんと来ず…。ただ、絵の解釈とか、絵に描かれた箱の中に羊が入って眠っている…なんていうのは素敵だとは思ったが、自分には、ゾウを飲んだヘビの絵はやっぱり無理だ、と思って終了した。

 こういう子ども向けみたいな顔をしているのに、よくわからない本、たとえば詩集だとか、雰囲気重視の画集だとか、スピリチュアルものだとか、ナンセンスなもの、絵がきれいだけど今思えば宗教のパンフレット…みたいな本があるのは、なんとなく気づいていたので、これはきっとそういう本の一種なんだろうということでもうかかわらないことにした。


 この本をもう一度手に取ったのは多分、19歳の時。20歳の時だったかもしれない、短大にいたときだ。
 星の王子さまのグッズを確か、もらったからだったと思う。

読んでみたら、なんだか、いい話だ。
 何度読んでも、なんとなく雰囲気重視ではあるが、いい感じの話だ。

 そして、私にこの絵を見せて、子どもなんだから、これがヘビに見えないとおかしいのだと言った人はやっぱり、間違っている…と思った。

大人が考える子どもなら、わかるのかもしれない。けれども、本物の子どもには、無理だと私は思う。
 あれがへびに見えるのは、王子さまだけだ。だから、星の王子さまは特別なのだ。

小さな星に住んでいる、あの人だから。

 きっと本物の王子さまに、私が会えたとしたら、そして私が「あんなの、絶対帽子にしか見えない!」と文句を言ったとしたら、なんだか、笑ってくれそうな気がするなあ。
 そう思って、私はこの本との和解を果たした。

この本だけは、誰とも感想を話し合わないことにしている。絶対、他の人と意見が揃わず、共感が楽しめない本だから。
この本は、一人だけで、いや、王子さまと自分の二人で読む本で、他の人が入ってくる本じゃない気がする。

kindle版をゲットして、とても久しぶりに読んだ。
いろんな訳が出ているけれども、やっぱり、この内藤 濯さん訳が私の一番最初の訳だったので、これが好きだ。

心の中の、相談室

自分で、落ち込んだり悩んだりしたとき、自分の中にアドバイスしてくれる人を持つ、というのは、便利なことではないだろうか。

ネットで読んだことがあって面白いなあ、と思ったのは、心の中にバーのママが住んでいて、嫌なことを言われたときに、「あんなの、相手にしてることないわよ、今日はおいしいものでも食べて、寝ちゃいなさいよ」とか言ってくれるのでそうしている、というツイートだった。

あと、見られない場合は画像のリンク切れです【多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ】なんていう本もあって、これはつまり、いろいろな嫌なことが起きたとき、こういうフレーズを頭の中に出すことで、さっさと気分を他に向けましょう、というようなことをアドバイスする本。
 心の中に決まった人を常駐させておくのではないが、ちょっとこの猫ちゃんたちに出てきてもらう、ということで、似たような働きを期待するものだと思う。



 自分一人だけで、自分の感情を処理するのが難しい時。体や、心がつらいときには、そのことに気持ちがとらわれていて、なかなか気分を変えるのも難しいし、ずっともやもやした気持ちを抱えているのもつらい。もちろん、お友達とか、家族とか、または心療内科の先生のようなカウンセリングの専門家とかに話を聞いてもらえばそれは楽になるだろうし、いいアドバイスをもらえるかもしれないが、夜中にいきなり、電話をかけるというのもなんだし、あんまり毎日そういう相談するのもちょっと…と思うし、正直自分でも、「人に相談するほどでもないかもしれない」という気分もある。

 そんな時に、自分の心の中に、誰かがいて…役に立つアドバイスをしてくれるとしたならば。
便利だと思うのだよね…。まあ、間違いなく空想上のことだし、言い方をかえれば「妄想」ということでもある。
「妄想」…ってあんまりいい語感じゃないので、本当にそれでいいのか、という気がちょっとする。部屋で妄想にふける、って文字列にすると、すごくイヤな感じがしない?する…よね。

 でも、これも見方次第。
1:他の人の手を借りていないので、他人の時間を使わない。他人に迷惑が掛からない。
2:自分で、ある程度納得のいく結論が出せて、つらい状態から抜け出せる。
この2つの条件がちゃんと満たせるのだったら、誰かにぶちまけて、力を借りるよりも便利だと思うのだ。
ぶちまけられる方も、結構気力を使うし、しょっちゅうやりたいと思う人は少ないだろうから、そういうのは、本当にこれは心の中の相談室だけではどうしようもないぐらいになったときに温存しておきたい。

 ちなみに、私が別に取り立てて理由もないのに、今まで起きたこととかをくよくよと悩んだり落ち込んだりしている時に、現れるのは私の古くからの友人だ。あんまり頻回に連絡は取らないが、20代の頃はよく遊んだ。

 柔道をやっていて、自衛隊に入っていたが、ものすごい筋肉派。アドバイスももちろん、脳みそ筋肉系だ。
 彼は大量の焼き肉でかなりの悩みが解決するタイプと言えば大体伝わるだろうか。
 全体的にアドバイスも言動もかなり乱暴で、私が自動車にはねとばされて意識を失って入院して、退院後すぐあったときは「お前は――!心配ばっかりかけて!今度こんな事故に遭って死にかけたら俺が殺すぞ!」なんて言われたものだ。
ひどい言い草だが、すごく心配してくれたのはわかった。
 
 私がなんとなく気分があがらず、ため息ばっかりついていると、心の中の彼はこういうのだ。
「おう、肉食え、肉。ハンバーグ食え。チーズのったのな。そんで腕立て伏せ100回ぐらいやると疲れるからな、そこでバタンと寝て起きたら、気分あがるぞ」と。

 多分、どこかでこんな会話を彼と交わしたことがある。私は確かその時、笑えてしまったのだ。腕立て伏せ100回って、10回も出来ないってば!って。
「まあ、無理だろな。じゃあ、走れ、10キロぐらい」
 …ちーん。10キロも走れないって。今は1キロも微妙だってば…。
「しょーがないなあ、じゃあ、せめて歩くか」

…そうだね…。私はとことこ歩いて駅前の洋食屋さんまで行き、ハンバーグを…チーズの乗ったやつを注文して、(ここでステーキ、と言わないのは、若いころの私も、彼もそんなものを食べるお金はなかったからだ)、とりあえず…ともぐもぐ食べて、割とおいしいかも…と思い、お腹いっぱいになってから、家に帰ってきたら歩いた距離が大体2キロ半ぐらい。

 太陽の光を浴びて歩いて、お腹がいっぱいになって、帰ってきたら、確かにさっきより浮上している。
私って、意外と単純?
そう問いかけると心の中の彼は言うのだ。
「人間には、みんな本能があるからな」と。

 …それでいいのかもなあ。という気がしてくる。
家事を穏当に済ませてから、その日は早く寝ることにして、ダメなら市販の睡眠薬なり、ちょっと眠くなる頭痛薬なり飲むぐらいのことはしてもいいだろう…めったに飲まないし。と10時ぐらいに寝て、目が覚めたら6時半、ってことはこれはずいぶん眠れたんだなあ…と起きたら確かに、気分がいい。

 「なんだか、今日は平気」
心の中の彼にそういうと、「おう、よかったのぅ」
そう言って彼の役割は終わる。

 別に自分で、気分が落ちているから歩きに行ってハンバーグ食べよう。そう決意してもいいんだけど、なんとなくいつも彼が出てくる。そっちの方が説得力がある感じがするからだろうか。

 誰にも、こうなっているのだと話したことはないのだけれども、他にも落ち込む原因や、シチュエーションによって、いいアドバイスをくれそうな人を心の中にカードのように出して、きっと彼女ならこういうだろう、きっと彼ならこういうだろう、と使い分けている気がする。

 もうなくなってしまった人もいるし、外国にいてすぐには会えない人もいる。架空の人物もいるし、夫のこともある。
ただ、すぐそこには現実に相談できる人がいない環境にいるときには、自分の中にいい意見を出せる人なら、誰でも、なんでもいいのだ。自分だけで考えているよりずっとまし。
 いい方法だと思うのだけれど、なんとなく人には話していない。
 子供の頃にはこれがそれほど使えなかったのは、多分こう言うだろうなあ…という、人物の考え方のパターンが貯まっていなかったからだと思う。それと、「このあたりが解決法として多分、有効」というデータも持っていなかった。
いくら、心の中の誰かがアドバイスしてくれるという形になっていても、実際のアドバイスをその誰かのパターンを借りて構築しているのが自分である以上、自分の中に「世間的にも自分にも受け入れられる正解のパターン」がない場合は、この心の中の相談室は使えない。

小さいころから、親がこの相談室の人になるぐらい、いい関係を築いていた人なら、もっと若い…小さいころから使えたのかもしれない。ま、今でも十分便利だと思うけど。

 きっとこういう相談室を持っているのは、私だけじゃないと思う。みなさんはどうですか。

メアリーポピンズの昔の本

「風にのってきたメアリーポピンズ」を古本で買った。

 この本は、岩波書店から今も発売されていて、本屋さんへ行けば手に入れることができる本だ。
子供のころからお気に入りで、中学生の時にバザーで150円でハードカバーの本を手に入れたときは天にも昇る喜びだった。 残念ながら、渡米する時に多分、誰かにあげたかなにかで残っていないが、私はこの本を相当何度も読んだ。

 英語版もこの間kindleバージョンで手に入れたぐらいで、息子が読んだ時には本当にうれしかったものだ。

 この本を古い版で手に入れるのには理由がある。この本は途中で2度、改版されているのだ。
一度目の改版では、数語しか差がないらしいのだが、2度めの改版(今の版はこれ)は、ものすごーく変化があって、絵まで差し替えられている。理由は、人種や文化への差別表現。

 世界のいろいろなところへ一瞬で飛んでいく…という旅行をして、北のエスキモー人のところへ行き、クジラの油のスープを勧められる、とか、南の「真っ黒で、ほとんど何も着ていない」人のところへ行って、えらく白い赤ん坊だね、靴墨でも塗ったらどうだい、なんて声をかけられるとか、東の中国の人はひげのおじいさんで頭が地面につくほどお辞儀をするとか、西のインディアンが、トナカイのフライ料理をごちそうしてくれそうになるとか…というような記述が全体的に、人種や文化を尊重していないステレオタイプなもので、差別的な表現につながる…というようなことが、この章が書き直される理由だということだった。
 故に、現在の版では、東西南北どこへ出かけた分も全部人間じゃなくて動物が出てくる。シロクマ、インコ、パンダ、イルカ…。まあ、動物なら何を言おうと人種問題には抵触しないからね…。かなり記述も短くなっている。

 それは確かに一理ある。文化的に「遅れて」いるようなイメージや、「非文明的」と、西洋文化を基準にして他の文化を低く見るような姿勢というのはなくすようにしていかなくてはならない。だから、私は今売られている本が改版されていることについてはそれが一番いいと思う。ただその部分だけが問題で、現代の子供がこの本が読めなくなるなんて、もったいなさすぎる。
 この本は本当に時代を越えて面白い本なのだ。

 私はもう、これが古い時代に…つまり1934年に書かれたことを知っているし、このころの西洋文化圏の人たちが、アジアやアフリカの人をどんなふうに見ていたかということも、それが現代に近づくにつれてどう変わってきたかも知っている。
 他の地域の文化を尊重するのが望ましいことも、人種差別がひどいことなのも、なくすように運動していかなくてはいけないことなのも全部。

 だから…これは当時の文化としてそのままに、見つめたいと思う。
…なあんて、格好つけても、単に昔に自分が子供の頃読んだそのままを読みたい、というわがままなんだけど。
 
 何回読んでもこの物語は私を、懐かしい世界に呼んでくれる。
 現代の子供たちにとっては、今の版が懐かしい本になるのだよね。
 
 「渡辺蔵書」と印が押してあった。どこの渡辺さんだか知らないけど、この一冊は、私が大事にしますから。

 多分、私が子供の頃に読んだ版より古いと思う。なんせ昭和45年刊で、岩波少年文庫なのに表紙がハードカバーで、箱までついていたのだから。300円ってきっとそのころは今の1500円とはいかないまでも、高めだったに違いないデラックスさ。小さくてかわいいのに、ちょっといい感じがする本でうれしい。
 
 最後につけられたあとがき、「この本を読んだ人、あるいはこの本を読む人のために」が素晴らしかった。
 林容吉さんという、この本を訳した人が1954年に書いたものだった。最後は、こう締めくくられている。

さて、もうみなさんは、メアリー・ポピンズと仲良しになりました―あるいは、これからなるでしょう。そして、メアリー・ポピンズと、バンクスさんのお家のことを、きっと、大きくなっても忘れられないようになるでしょう。メアリー・ポピンズも、ジェインもマイケルも、本の中にいるのですから、会いたいときには、いつでも、本を開きさえすればよいのです。こうして、わたくしたちが、学校や、知り合いのお家で、友だちをもつように、本のなかに、友だちをもつということは、なんという、すばらしい幸福ではありませんか!

ああ。
そうだったね…。私は本の中にたくさん友達を持っていた。本を開けば会える。
そういう感覚をしばらく忘れていた。

 本の中に、友達をもつということは、なんという素晴らしい幸福ではありませんか。
もう一度繰り返して、幸せな気分になった。

チベット旅行記

【チベット旅行記】という本を読んだ。
実に強烈だった。
感想文にもならない感想だけれども、特に前半のインパクトは、「読んだら、わかるから」としか言いようがない。

みんなが知っている「西遊記」、孫悟空の出てくるあれ(ドラゴンボールではなく)は、中国から、インドへお坊さんがお経を取りに行く話で、陸続きであるからして、馬に乗ってお供を連れて、歩いていく道中の冒険話なんだけども、あれはフィクション。

このチベット旅行記は、日本からまず、インドまで行ってからスタートして、チベットまでお経の本を取りに行く話で、なんと、実話、ノンフィクション
 旅行なんて言葉じゃ足りない、絶対これは冒険か、探検か、そのあたり。
現代にも、「冒険家」という人たちがいる。太平洋横断とか、極地探検とか、ヒマラヤ登山とかそういうことをしている人たちがいて、本を書いている。私もそういう人の本を面白く読んだこともある。
 でも、このチベット旅行記を書いた人は探検家ではない。探検家は、探検するのが目的で、それを仕事にしている。
 でもこの人は、本職がお坊さん。探検は、過程であって、目的じゃない。「そうするしかなかった」とか、「そうなっちゃった」なところがなんとも。
 時代も明治時代、装備なんかもほとんどない。地図も持っていない。で、ヒマラヤ越え。無茶にもほどがある。

 当時は、インドはまだ植民地、イギリスとか、フランスとかは、アジアを植民化しようとがんばっていたので、それが避けたい国は外国人をいれないことにしている国が多かった。チベットもつまり、「完全鎖国」状態。もちろん日本人も外人であるからして、入国不可。

 とはいえ、周りが全部海の日本と違って、一応陸続きで、そこら中見張っているわけにもいかないので、密入国が可能だろう、というわけで、この作者の川口慧海さんというお坊さんが、根性でヒマラヤを越え、高山病と戦いながら、遊牧民のテントにお世話になりながら…チベットを目指す話が、このチベット旅行記。

 お坊さんで、肉食をしない。ついでに言うと、正午までしか食べ物を食べない。そういう戒律の下で旅をする…ってめちゃくちゃ無理がないか…と思うのだが、ナイロンのテントもシートもない、ゴアテックスもない、登山靴もない、カイロも、電池もない、GPSもない、途中からは磁石すらない状態で、よくぞ生き延びた、という話だった。麦粉と、干した果物と、水…毎日それってどうなの…。

 普通の人なら30回ぐらい死んでそうなんだけど…いや、もっとかも。
遊牧民だとか、仏教の聖地への巡礼者とかに説法をして、食べものを寄付してもらいながら、これも御仏の守りよ、と目的地に近づいていくのが、鬼気迫る。

 最初は言葉が出来ないとなんともならないので、まず言葉を覚えて…とか、チベットに入るまでに3年かかっている。後、面白いのは、1800年代でも、中国の人はどこの国にも街にもいたってこと。中国の人は、昔っからあっちこっちで貿易をしている人が多いのと、大きい街には、大抵、中国の人が住み着いていて、中国料理を出すレストランがあるのは、現代でも変わらない。当時のインド、ネパール、チベットも例外ではない。なので、この慧海さんは、自分を「中国人」と偽って旅をしている。

 どこにいても怪しまれないということなんだねえ。中国語はあんまり話せないが、中途半端に中国語が出来るインド人とか、ネパール人とかに、それは北京語だ、福建の言葉をしゃべるので、話し方はわからないが、とやっておいて、相手にどんどん漢字を書いて見せ、中国人で押し通すとか、無茶もしている。

 チベットに着いてからの記述は大体想像できる範囲を越えなかったが、チベットに着くまでは、本当にハラハラしながら読んだ。
実は雑誌の連載をしてから、本になったらしいのだけれど、当時は、本当の話じゃないんじゃないか、と創作扱いされたというのも無理もない荒唐無稽な出来だった。

 日本人の文化の中で育った人なので、現地の習俗を野蛮だ、とか、不潔だとか書いているところもあるけれども、これはもう明治時代のことなのでしょうがない。
 
 この間まで転生もののライトノベルをたくさん読んだけれども、これはつまり、気が付いたら荷物を背負って、インドにいて、なぜかチベットに行くことになりました…というような話だと思えば、ものすごい異文化物だよね。
 ちょっと古い本で、言い回しも古いけれども、文化交流が進んで、ある程度均質化が起きてしまっている現代の世界とは違うので、味わいが全然違う本だった。

 
 ちなみに、てっぺんのリンクは、青空文庫。
【このリンクはアマゾンの】だけど、本は著作権が切れているらしく、無料なので、おすすめ。

 紙の本は、講談社から出ているらしい。

 おなか一杯贅沢なものを食べて生活をしているのに、はったい粉が(麦こがしという名前でこの本に出る)が食べたくなる本だった。

 

「放浪記」を読む

今日の当たり前ポエム↓

 まあ、あんまり日常的でないことを書いているので、つまりこれは「今日も作りましたよ」というだけのことなんだけど。
*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…
 今日は、お小遣いは貯めているのであんまり使えないし、図書館に行く気もおこらない…けど、手持ちの本を読む気も起らず、安く買える本を探して読書してみた。

 選んだのは、林芙美子の【放浪記】
 私は読書が好きな子供だった。学校の図書館はあらかた読みつくせるぐらいのサイズ…つまりかなり小さかった。読みやすそうなもの、気の合いそうな本は読みつくしてしまうと、残るのは全集。子供向けの全集とか、図鑑とかもある程度見てしまうと、残るのが文学全集。

 夏目漱石、芥川龍之介、与謝野晶子…まあ、中学、高校へ行けば大体名前と代表作位は覚えることになるああいう本。
小学校の高学年で、一応かじってみた。
 何が面白いのか、わからなかった。「吾輩は猫である」とか「坊っちゃん」とかは一応最後まで読んでみた。「たけくらべ」とか「野菊の墓」とかも読んだ。

 今から思えば、小学生にはかなり、無茶のある選択だったと思うし、色恋沙汰も、人の心の機微も、大体こんな感じ…ということは国語は得意だったからわかったが、かといって興味深く、面白く読めたか、というと全然だめだった。
 こーゆー本は、だめだな。そう思って、私はそれ以来、どうしても読まなくてはいけないもの以外は、名作にはあまり手をつけなかった。

 今回、「放浪記」を読もうと思ったのは、林芙美子作品集が99円で全著作買えたからで、一つ、短い文章を読んでみたら、面白かったから。「初出版」と「新版」があったのだけれど、私が読んだのは新版のほうだった。(初出版も収録されていた)
 作者が書いた日記をもとに書かれている小説だということだったけれど、まず、年齢がまだ20歳前からスタート。

 若い…んだけど、この主人公、すごく苦労人だった。大体、家父長制が当たり前だった時代の日本で、「認知されていない」子供として生まれてきて、なおかつ「生まれた場所の戸籍」がとても大事だった時代にその地域を出て、貧乏な親と居所の定まらない生活をして大きくなった…というだけでも、かなりきつそうだった。

 社会保障制度なんか全然ないころには、家長が一族郎党面倒を見るのが当たり前で、それが社会保障制度の代わりをしていたころなんだから、そういう頼るところが全くない…というだけで、ここまで貧乏になるんだ…という記述が続く。
 食べるのに困る暮らしが書いてあった。

 内風呂なんかない、他の人の家の部屋を「貸し間」として借りて、そのころの女性がつける仕事は少なく、誰でも雇ってもらえる仕事…となると、女給、つまり今でいうウェイトレスみたいな仕事。夜遅くまで働いて、お愛想のひとつも言い、男性にお酒を注ぐぐらいのことは、出来なくてはならない。住み込みが基本で給料激安。ご飯は食べられるけど…ぐらいのことで、そのころには労働組合もなかっただろうし、最低賃金なんていうものもなかったから、みんな言い値で働いていたし、食べられないよりましで、仕事が辞められない、というような状態で、いやー。ほんと貧乏。読んでるだけでおなかがすきそうな…。
 
 それでも、ちょっとは好きなものを食べたり、きれいなものを見たり、仕事場で知り合った人とごはん食べて愚痴りあったりするところは、今の女の子たちと変わらない。
 日記から書いてあるということで、場面もぱっぱっと変わってしまう。ある時は食べるのに困って一人暮らしをしているかと思えば、親と一緒に住んでいたり、また場面が変わると、原稿が売れてちょっとお金がある時もあったり、男性と同棲していたり、ルームメイトがいたり。

 文章力って、すごいな、と思う。当時は、こういう貧乏な女性というのは、うんとたくさんいたに違いない。でも、どこにでもあるような生活を文章にして、ここまで読ませるとは…。引き付ける力がある。かなり厚い本なのに、一気に読んでしまった。
 
 主人公は見ていると、本当にハラハラする子だった。もう、引っかかる男が全員なんていうか、ダメな奴ばっかり。どーしてそういうのとくっつくのよ!と、私が友達だったらちょっと止めたくなるような男ばっかり。主人公と同じ文筆業志望とか、劇団員を(それもあんまり売れてないような)志してるとか、なんか平成の今も聞くような話だ。

 歌手になるとか、バンドでデビューするとか、そういうことを言って何年も働いていない、そういう男の人を「私が一番の理解者だから」とか言って、付き合って、貢いで、だんだん深みにはまって破滅的になっていく子をみたことがある。役者になるとかの芸能人志望、音楽家志望、それから今だと、「起業家志望」ってのもあったな、知り合い…とか知り合いの知り合いぐらいになら、そんな話は聞いたことがある。 

 そういう男って、昔っからいたんだね…。
 そしてそういう男にひっかかる女も。
 女を殴るような男、絶対だめだから。逃げようよ、ほんと。そう思いながら読んだ。

食べ物がない。お金がない。ないったらない…。お金があったらな。そう思いながら暮らす女の子が本当に実感を持って書かれていて、私は自分が一人暮らしをしていて、お金が結構ギリギリだったときのことを思い出してしまった。

 もちろん、私は食べるのに困ったことはなかった。貯金もあったし、食べ物だっていろいろストックしてあった。でも…一人で生きていくことの心細さ、働いてお金をもらって、給料が入って、ああこれで、またしばらく大丈夫なんだ、と思う気持ち、自分で稼いでやっていくぞ、という心意気。どれも覚えがあって、この主人公を応援したくなる。

 手堅そうな仕事を初めたらしい日記も何回かあったのに、またそこを出て、お金がない状態に逆戻りしている。
なぜやめる!!前のところで、せめてもうちょっと働いて貯金ぐらいすればいいのに!と突っ込みたくなる。
 そして男を見る目がほんとにないのな!(19歳の時の私にもなかったけど…)っていうか、こっちの人はどうなの?なんか、よさげだけど…とか。

 いつの間にか、私は、まるでこの主人公を見守っているような気になっていた。
 自分の書いた原稿が相場の半額で買いたたかれて、人の名前で発表される…って、ひどいなあ…。それが実話だとしたら、今はもうそれはばれているんだろうか…。(これは真相はわからなかった)

 結構中途半端なところで終わってしまって、主人公≒林芙美子が、幸せになったかどうかがわからなかった。
 面白かったけど、消化不良だなあ…と思ったけど、そうだ、パソコンがあるじゃないか!

 そう思って林芙美子さんのことをネットで検索。

 籍は入れなかったらしいけれども、内縁で結婚して、一生一緒だった人があったらしい。優しくしてもらって、その旦那さんは、林芙美子さんのことを「先生」と呼んで、生活を支え、マネジメントもしてくれたらしい。
 いい人が見つかってよかった。

とっくの昔に亡くなってしまった、知り合いでもない人なのに、知っている人みたいな気がしてきてしまう文章だった。
「文学の名作」と言われるような本を読んで、ここまで楽しめたのは初めてじゃないかなあ。

 私も、年齢を重ねて、いろいろな経験を積んで、大人の本がわかるようになったんだと思う。
 名作が、読める環境が整ったってことかもしれない。
そうだよねえ…。推理小説とかSFとか、ライトノベルにも、これは面白い!というのとなんか合わない…というのがあるんだもの、文学作品にもあって当然だよね。

 今度から、名作にも合うのがないか、見てみようかな。
*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…*…
本を読み終えてから買い物に行き、ポストに入っているものを回収して帰ってきた。
ほとんどがチラシなんだけど、そのうちの1枚が、パート募集で、裏が履歴書用紙になっているものだった。
…放浪記では、主人公が、仕事を探していたときに、履歴書を出してくれと言われて、履歴書が買えない、と言って採用担当者に絶句されるという話があった。紙を出してもらって色々書いて、帰る時にその人がそっと、少額の現金(多分今の500円ぐらい)を握らせてくれるんだけど。
 やっぱり、履歴書用紙が買えないぐらい手持ちの現金に困る人がいるんだろうか…。
まあ、履歴書用紙は、裏は真っ白だからねえ。裏にパート募集の広告が刷ってあったところで、誰も困らないけど。
 配偶者が就職に反対で、必要経費に少額でもお金を出すことを渋るとか?それともひとり親家庭で200円の履歴書用紙パックが買えないとか…いや、そこまで困窮してたら、食べ物にも事欠くだろうから、悠長に就職してなくて…とか言ってる場合じゃあないよね。公的な補助を頼ってでも、パート募集ではなくてもうちょっと収入になりそうな勤め先を探さないとまずいだろう。

 普段なら気づきもしないで捨てるような広告なのに、読んだ本の中身が嫌に実感に迫ってくるものだったので、見たこともない誰かの心配をしてしまった午後だった。

「今日の100」 読後感想

ふと、図書館で見かけて、「今日の100」というエッセイを借りて帰った。
著者の松浦弥太郎さんが、「暮らしの手帖」のヒトであることを、私は一応は知っていた。(今はもう、違う人になっているらしいけれど、この本が書かれた当時は、編集長をしていたらしい)

暮らしの手帖は、実は子供の頃から、大好きだった。いろいろな商品を比べて、どれが使い勝手がいいか、なんていう記事は小学生なのに興味深く読んだ。ストーブ、オーブントースター、雪平鍋、レードルなんかもあっただろうか。どれも、ホームセンターなんかで買えるような商品が多くて、そしてうちの親も実は参考にしているようで、生活用具には、そういうおすすめ商品を買ったりしたものだ。

餅を焼く網とか、台所用品のレビューが多かった気がする。

コラム「素敵なあなたに」や「エプロンメモ」は家にあるもので工夫するような話や、手芸の話、家での、今でいう「ライフハック」みたいなものが多くて、実はこれも好きで、紙の本を実は持っている。(すてきなあなたにの1から5、エプロンメモ1と2)

そんなわけで、私は「暮らしの手帖」ブランドに割と信頼をおいていた。大橋鎭子さん、花森安治さん。

…そんなわけで読み始めた、「今日の100」。これは、著者がいいと思ったものを書いているいうなれば「今日の一品」的なコラム…だったのだけれども。

 今は、書いてあるものを買いたくなった時に、それがどこで手に入るか…ということを調べるのは難しいことではない。昔の暮らしの手帖だと、どこで手に入るかっというのは、雑誌に電話番号や問い合わせ先が書いてあったものだが、今はパソコンで商品名を調べれば、あっという間に買えるサイトがわかる、といった感じで、そのあたりは昔よりずっと便利になったと思う。

が…だ。

コラムの中に書いてあるものが、なんていうの?「初めての人には売らなくって、紹介のみ」だとか。
 パンを焼くトースターが7万5千円するとか(注:単機能。トーストしか焼けない)。

なんていうか、話がぐっとブルジョワなのだ。

「家にあるもので、工夫して作るおいしいお菓子」は?「使いやすく、手ごろなお値段で便利な台所用具」は??

違う。これは、私が知っている「暮らしの手帖」ではない。これは「家庭画報」だ。家庭画報という雑誌は、お金はかかってもいいから、いいものを追求する、そういうところがある雑誌だと思う。伝統の職人さんが手で作った、世界に誇れる品質の一点もの、不揃いでもオーガニックで、安全ななんとか農法で作った野菜だけを出す、隠れ家的レストランとか、量産品でも、買うのに順番待ちで、届くまで半年かかるなんとか…とか。
 
 葉山や、鎌倉にある、紹介されないとは入れないお店や、会員制の何とか、とかそういう感じ。広告も、なんていうかお値段が10万円の桁からしかないというような広告が多い。

いいんだ、家庭画報なんだから。うちではこういうものは買わないな、というようなものが乗っていて、へー、職人さんの手作りねえ、伝統工芸はやっぱりこういう人がいないといけないねえ…的な、または地鶏だとか、特別に肥育された牛だとか、魚でもブランド名がついたのとか、おいしそうだねえ、うんうん、と思って終わりの雑誌。

 でも…暮らしの手帖は違った。リメイク、工夫して作るクラフト、いかにして材料を使い切るか…とまではいかなくても、旬の材料を使って作る地に足の着いた家庭料理、ちょっとした一工夫で家事が楽しく、楽になる、そんなことが詰まった雑誌だったのに。

 何これ。トースターに、7万円?これなら、MONOマガジンでやればいいんだよ。こだわりの逸品、そういうのが好きな人が。
 新しい布が買えなくても、美しいファッションが。そういうのが好きだったんだよね、暮らしの手帖の最初のを作った人はさ。

どうして、今ある電機メーカーのトースターの比較じゃないんだろう。

まあ、暮らしの手帖の1コーナーを集めた本なんだから、こういう感じになっちゃったのかもしれないけど…。
 それなら、「サライ」とかでコラムを連載している人の本でいいんだよなあ。

 バイキングで、うっかり苦手な料理を見た目にだまされて取ったみたいな気分。

だから、今日は本のリンクは貼らない。

 ちぇ、なんかおいしくなかった…と思って口直しに「すてきなあなたに」を本棚から出して読んだ。
 
質実剛健がいいんだよなー。

まあ、私が7万円越えの金額をトースターに出すのが嫌なだけともいう。好みに合わない、ってこういうことだよなあ。
物にこだわりたい、お金を出してもこだわりたい、という人には、とてもいい本なんだろうけど。
ネットを見なくても、こういう風に本に書いてまとめてあるのは、さっさと読めていいものね。

 割と、私は考え方が古いのか貧乏だった時期が長いからなのか、物がなくてもなんとかしたい…というところに行きがちなのがこの本と気が合わない理由なんだろうな。

 次回、この人の本を読むときは、物の紹介本はやめよう。


一番腹の立つ図書館の本

読んでいて、一番腹の立つ本。それは、誰かが線を引きながら読んだ本だ。

まあ、本が寄贈されたもので、もともとの持ち主が線をいれたという可能性もゼロではない。
ないがしかし…。

今日読んだ本の文章にも、線がひかれていた。

読んでいてイライラする。
そりゃ、そこが重要なところなのは私にもわかるよ?わかるけど!
でも、だからといって、図書館の本に線をひくなよ。

線をひいていい本は、自分の本だけだ。

まあ…ペンで線がいれてあるより、まだましだ。多分この人が手に持っていたのはシャーペンだ。
線が細いもんな。学生さんかなあ。新書だしな。そうかもしれないな。

私は消しゴムを片手に持って、線を消しながら読んだ。
ったく、誰か知らないけど、感謝しろよ、もー。

こんな「図書館の本に書き込みはしません」なんていうこと、物心ついたころには覚えておけよ、と思う。
うちの小学生だって図書館の本はページを折ったり、線を書いたりしてはいけないことぐらい知っているというのに。
しおりをはさみましょう、と学校で教えてもらったそうだし、図書館でもしおりを配るとか、なんかそういことだってやってるらしいのにね。

私は実は自分の本でも、線を書き入れるのはいやなぐらいだ。
大事なところなんて、文章を読んでいれば自然にわかってくるのに…と思ったけど、息子の国語の読解力問題の正答率の低さを思えば、自然にわからない人もいるのかもしれないなあ。

…でもそうしたら、線なんかひけないよねえ?

一体、線をひきながら読む人は、何を考えながらそうしているんだろう。
後で読んだ時、その部分だけ読めるようにか?

 数行読むだけ…うーん。参考書の要点に線を引き(これは私もやったことがある。ただし自分の限定だけど)、あとで見直すのと同じようなことなのかなあ。

 消しゴムのかすを膝から払い落として、紅茶を飲んだ。

妖精は、いるのか

【年末の日記】に、源氏パイのおまじないの話を書いてから思い出したこと。

 私は、ファンタジー小説が大好きだった。おまじないも信じていないふりをしていたが、ちょっとはもしかして、と思わないこともなかったし、ばれないようにやってみたことだってあった。牛乳を開け放した窓の外にコップに入れておいて、ストローを刺しておき、そのストローに花をかざってブラウニーを呼んで願い事をかなえてもらおう、というものだったと記憶している。

 ブラウニーは、場所でいうとアイルランドの伝説で、多分日本にはいないけど、願い事は、結構深刻で、自分の手には負えないようなもので、もうおまじないぐらいしか頼るところがなくなったので試した…みたいなことだったと覚えている割には、願い事が何だったのか覚えていないあたり、当時多分10歳の冬の私の願い事は、今大人になった私から見ると大したことのないものだったに違いない。

 子供はいつだって、オカルトが好きだ。超常現象、超能力、おバケ、妖怪、そして妖精。

本物の妖精は、一度も見たことはなかったが、シシリー・メアリー・バーカーの書いた妖精の絵はお気に入りで何度も図書館で借りたし、お菓子についていたカードは、姉が全部持って行ってしまったのが今でも残念なぐらい大好きだった。
(左の絵は、メアリー・バーカーのwikipediaのページのをお借りしました)

妖精がどんな生活をしているか…なんていうことを書いた本は、確かお年玉で買って、相当長い間読んだ。妖精王オベロンとか、女王ティターニア、なんていうのもその本で覚えたし、まるで日本でいう八百万の神様のように、いろいろな妖精がいること…たいてい子供にしか見えないことや、ユニコーンが現れるのは処女の前だけであるとか、まあ、神話的周辺情報込みで、そういう本があって、おまじないや、占いの本に混ざって売られていた。

占い、おまじない、それからファンタジーな物語たくさん。その中にあって、一冊、今でも思い出す本がある。それは【空を飛んだおんぼろ校舎】という本。
毎回題名がうろ覚えで、ケストナーの「飛ぶ教室」がひっかかるのだが、英語の題名は「Enchanted Classroom」。つまり「魔法にかけられた教室、という感じ?

 これは、うんと田舎に住んでいるアイルランドの少年が、何もかもが新しく発展したアメリカに移民したおじさんのところに遊びに行く…という話。多分第二次世界大戦後ぐらいの年代で、教室が1つしかないというような学校がまだあったころ。

 この本には、妖精が出てくるのだけれど、ものすごく、人間っぽいというか、お花や、星や、幻めいている、羽の生えた妖精を絵本とかで見ていると、この本の妖精は、とても現実的。レンガや、焼き立てのパン、それから豆の缶詰。そういう感じのどっしりした日常感が立ち上ってくるキャラクター。

 もしかして…。やっぱりいるのかも。当時10歳ぐらいだった私に、そう思わせるのに十分な本だった。

今、大人になってしまった私には、多分妖精がいたとしてもきっともう見えはしない。
でもやっぱり、ちょっと心のどこかで、いそうな気がするんだな、ブラウニー。good neighbor、よきお隣さん、と称するのがブラウニーに失礼にならないコツなのだそうだ。

 ミルクのおまじないの隣のページに載っていた、クラッカーにチーズをのせ、はちみつをかけたのを出しておくと、コボルトが願い事をかなえてくれるんだって…というのを、クラッカーとチーズを食べるたびに、思い出す。

いたら、いいよね、妖精。
古い本だけど、図書館には、まだあると思うのでおすすめ。
エビが…多分イセエビみたいな大きいのが…食べたくなるので、注意。

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